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細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


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第三十八話「夏の宴、蒲焼の香」

夏の夜は、熱が沈まない。

岐阜城の石垣は昼の陽を抱えたまま、吐き出すように熱を返していた。


風が吹いても涼しくはならず、ただ湿った空気が肌を撫でるだけだった。

それでも城の中は、妙に浮き立っていた。


廊下を急ぐ足音。

酒器を運ぶ音。

笑い声と衣擦れ。

灯明の揺らぎ。

今宵は宴。


玉は朝から厨に立ち、手を止める暇もなく動いていた。

指先は油の匂いを纏い、髪には炭火の煙が染みている。


(失敗はできない)

(今日は、ただの宴ではない)


武将たちが集まる。

家臣団が揃う。

信長の機嫌ひとつで、空気が変わる。

そして何より

(父上が呼ばれていない)

玉の胸に、刺さったままの棘がある。


織田の重臣が集まる場なら、本来、京を治める役目を担う明智光秀も呼ばれて然るべきだ。


だが名がない。

使者も来ない。

(京が忙しいのか)

(それとも……冷遇か)

玉には分からない。


分からないから、怖い。

けれど今は、考えすぎてはいけない。

玉は包丁を握り直し、心の中で自分に言い聞かせた。


(目の前の宴を無事に終える)

(それだけに集中する)


炭火が赤く燃え、香ばしい匂いが立ち上る。

鰻。

岐阜城で、鰻をこれほどの量で用意するのは、贅沢そのものだった。


玉は串を握り、鰻の身を裏からじっくり焼く。

皮が泡立ち、脂が炭に落ちて、じゅっと音を立てる。

煙が上がり、甘い匂いが厨いっぱいに広がった。


(この匂いで、もう勝ちだ)

玉はそう思った。

さらに、玉が仕込んだ醤油で作ったタレをくぐらせる。

照りが出る。

色が濃くなる。

香りが強くなる。


(父上……この醤油を使っている)

(この香りは、私の未来の匂いだ)

玉は胸の奥が熱くなるのを感じた。


夕刻。

城内の空気が変わった。

座敷には灯がともされ、香が焚かれ、床は磨き上げられている。

侍女たちは衣を整え、膳の数を何度も確認した。

武将たちが次々に集まる。


柴田勝家が入ってきた。

その足取りは重く、畳を踏む音が強い。

背が高く、威圧がある。

勝家の心の声は、顔に出ないまま響いていた。


(宴など好かぬ)

(酒で気を緩めれば、隙が生まれる)

(だが殿の顔を立てねばならぬ)


次に丹羽長秀。

柔らかな顔、整った所作。

だが目は冷たいほどに静かだ。

(殿が宴を開く時は、必ず何かある)

(戦の前触れか、恩賞か、あるいは見せしめか)

(ここで流れを読む)


続いて佐久間信盛。

笑っている。

だが笑いは薄く、どこか疲れが見える。

(勝家殿の顔色が固い)

(秀吉が来れば場が荒れる)

(今日の宴は、ただの宴ではない)


そして羽柴秀吉。

入った瞬間、空気が軽くなる。

笑顔が場を和らげる。

だがその胸の内は、誰よりも鋭い。

(殿の機嫌は悪くない)

(帰蝶様が嬉しそうだ)

(これは……何か仕掛けがある)


秀吉の目が、膳の準備に動く侍女へ向く。

(料理で場を動かすつもりか)

(殿はそういう遊びが好きだ)

(光秀殿がいない……妙だな)

(京が忙しい?それとも外された?)


秀吉は笑みを崩さず、心の中で結論を出す。

(どちらにせよ、俺には好都合)

やがて座敷が静まり返った。


信長が現れたのだ。

板間を踏む足音が近づき、やがて止まった。

次いで、草履を脱ぐ気配。

それだけで部屋が張り詰めた。

信長が襖を開けて入ってくる。


汗の匂い。

戦の匂い。

それでも疲れは見せない。

信長は上座に座り、周囲を見回した。

その視線だけで、武将たちの背が伸びる。

信長の心の声は、確かな優越に満ちていた


信長は杯を持ち上げた。

「――飲め。食え。楽しめ」

短い言葉。

だがそれは命令だった。

武将たちが声を揃える。

「ははっ!」

宴が始まる。

最初の膳は酒肴。

魚。

煮物。

香りの強い野菜。

武将たちは食べながら、探るように周囲を見る。


勝家は思う。

(無駄に凝った味だ)

(だが悪くない……酒が進む)


丹羽は思う。

(厨の者の味ではない)

(帰蝶様が手を入れたか)


秀吉は思う。

(今日の主役は、まだ出ていない)


そして帰蝶。

上座の少し下で、扇を持ちながら微笑んでいた。


帰蝶の心の声は静かに弾んでいる。

(殿は、今日の料理を知っている)

(だが家臣たちは知らぬ)

(その瞬間の顔が見たい)

(殿が優越を纏う瞬間が見たい)


帰蝶は信長の横顔を盗み見て、心の中で笑った。

(殿は子供のように楽しむ)

(それが、たまらなく愛しい)


そして、主役の膳が運ばれた。

漆黒の器。

蓋を開けた瞬間――甘い香りが座敷を満たす。

鰻の蒲焼。

照り。

艶。


炭火の香ばしさ。

さらに、白い湯気を立てる蛤のお吸い物。

膳が並んだだけで、武将たちの目が揺れた。

「……ほう」

「これは……」

勝家の心がざわつく。

(なんて匂いだ食欲がそそられる香りだ)

(贅沢だ)

(殿の威を見せつける気か)

丹羽は思う。

(香りが違う)

(タレが濃い)

(……醤か?味噌とは違う)

秀吉は舌を鳴らした。

(これは殿の好物だ)

(だが、この香り……)

信長はその反応を見て、口元を僅かに上げた。

信長の心の声が、愉快そうに弾む。

(皆、驚いておる)

(この香りに耐えられぬ顔だ)

(だが俺は知っている)

(俺だけが先に味わっている)


信長は箸を取り、ゆっくりと蒲焼を口に運んだ。

舌に乗った瞬間、信長は確信する。

(……やはりだ)

(このタレは強い)

(甘さが立つのに、くどくない)

(香りが深い)

(魚が、肉のように締まる)


信長の顔は崩れない。

だが、その目は確かに満足を映していた。


勝家が一口食べる。

次の瞬間、目がわずかに開く。

(……何だこれは)

(味が濃いのに、嫌味がない)

(脂が、香りで消える)


丹羽が吸い物を口に含み、静かに驚く。

(澄んでいる)

(なのに深い)

(出汁……これほどの技を誰が)


秀吉は蒲焼を噛み、笑いを抑えた。

(これは武将の舌を掴む)

(戦の前にこれを食わせれば、兵の士気が上がる)

(殿の力が増す)


武将たちのざわめきが広がる。

「……これは美濃の味ではない」

「甘いが、締まる」

「酒が止まらぬ……!」


その声を聞きながら、帰蝶は扇の陰で微笑んだ。

(皆の顔が面白い)

(殿が誇らしげに座っている)

(この瞬間が見たかった)


帰蝶は信長の横顔を見つめる。

信長は堂々と杯を傾け、心の中で笑っていた。

(俺が与える)

(俺が見せる)

(俺が驚かせる)

(俺の天下は、こうして作る)


信長は箸を置き、座敷を見回した。

「……どうだ」

誰もが頭を下げる。

勝家が言葉を選びながら言った。

「……殿。誠に、見事にございます」


丹羽も続く。

「この味、他にございませぬ」


秀吉は満面の笑みで言った。

「殿の御威光、まこと恐れ入りました!」

信長は鼻で笑う。


だがその目は愉快そうだった。

「そうであろう」

その一言が、場を支配する。


帰蝶は心の中で囁いた。

(殿の優越が、今夜は美しい)

(この男は、こうして天下を取る)


信長はふと帰蝶へ視線を向けた。

「帰蝶。これは誰が作った」


帰蝶は静かに答える。

「玉にございます」

その名が出た瞬間、視線が集まった。

玉は座敷の端で膝をつき、頭を下げていた。


胸が強く打つ。

(来た)

(ここで、私は評価される)

(評価は武器になる)

(だが、武器は鎖にもなる)


信長は玉を見下ろし、問う。

「玉。

このタレは何だ」

玉は声を整えた。

「大豆を仕込み、塩と麹を合わせ、長く寝かせた黒き雫にございます」


信長の眉が動く。

(大豆から、これが生まれるか)

(面白い)


信長は笑った。

「良い」

その一言で、座敷が震える。


勝家は思う。

(殿が認めた)

(ならば玉は生き残る)


丹羽は思う。

(帰蝶様の手札が増えた)


秀吉は思う。

(あの娘を味方にすれば、面白い)

帰蝶は扇の陰で、満足げに微笑んだ。

(やはり)

(玉は私の予想を超える)


宴は夜更けまで続いた。

酒は進み、言葉が増える。

笑いが増える。

そして噂が混じる。


玉は膳を整えながら、耳を澄ませた。

(ここだ)

(この場の言葉が、未来を作る)

(父上が呼ばれぬ理由も、この中にある)

だが答えはまだ掴めない。

ただ一つ、確かなことだけがあった。


信長は、満足している。

帰蝶は、楽しんでいる。

家臣たちは、舌を奪われている。

そしてその中心に、玉の料理があった。


宴の終わり。

信長は杯を置き、玉を呼び寄せた。

玉は膝をつき、深く頭を下げる。


信長は玉を見下ろし、言った。

「褒美を取らせる」

玉の胸が跳ねた。

褒美。

それは喜びのはずなのに、玉の心は冷えた。

(褒美は縁を呼ぶ)

(縁は運命を呼ぶ)

(運命は――細川を呼ぶ)

玉は頭を下げたまま、必死に考えた。

(何を願えばいい)

(金か)

(道具か)

(人か)

(……父上のために、何かを引き出すべきか)

信長の声が低く響く。

「申せ。望みは何だ」

帰蝶の視線が玉を射抜く。


その目は笑っている。

だが試している。

玉は喉が乾くのを感じた。

(ここで言葉を誤れば)

(未来が決まる)

玉は息を吸い、答えを探した。

――この一言で、運命が変わる気がしてならなかった。

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