第三十七話「夏の宴支度」
岐阜城へ戻る道は、来た時よりも短く感じた。
玉は籠の中で膝を抱え、揺れに身を任せながら目を閉じる。
実家で父に渡した紙束の感触が、まだ指先に残っている気がした。
(父上は受け取った)
(きっと使ってくれる)
それだけで胸が少し軽くなる。
だが同時に、別の不安が胸の奥でじっと息をしていた。
(これで終わりではない)
(父上が功を立てても、火種は消えない)
玉が止めたいのは「戦」ではない。
未来の――あの炎だ。
本能寺。
謀反。
明智の滅亡。
そして自分の破滅。
(まだ遠い)
(だが、遠いからこそ危うい)
油断した瞬間、歴史は動き出す。
玉は目を開き、心の中で自分に言い聞かせた。
(情報が要る)
(父上が、なぜあの道へ向かうのか)
(誰が父上を追い詰めるのか)
(何が父上を折るのか)
それを知らねば、止められない。
だが
(簡単ではない)
玉は痛いほど分かっていた。
子供の身では、動ける範囲が限られる。
問いかければ怪しまれる。
耳を立てれば目立つ。
何より、ここは岐阜城。
織田の城。
信長がいて、帰蝶がいて、家臣団がいる。
つまり、情報の中心だ。
(……ここにいる方がいい)
(京より、尾張より、ここが一番近い)
玉はそう判断していた。
岐阜城の空気は怖い。
だが怖いからこそ、得られるものがある。
城へ着くと、玉はすぐに帰蝶のもとへ向かった。
廊下を歩くたび、畳の匂いと木の香りが鼻をくすぐる。
慣れたはずの城内でも、久々に戻れば胸が締まる。
帰蝶の部屋の前で、玉は姿勢を正した。
襖が開き、侍女が声をかける。
「玉様、お入りくださいませ」
玉は膝をつき、頭を下げた。
「奥方様。里より戻りました。
このたびの暇、誠にありがたく存じます」
帰蝶は静かに玉を見た。
その視線はいつも通り鋭い。
だが、どこか楽しげな光がある。
(……この方は)
(私の何かを、面白がっている)
帰蝶は扇を膝に置き、淡々と告げた。
「戻ったか。
明智の屋敷はどうであった」
玉は慎重に言葉を選んだ。
「皆、変わりなく。
父も母も、健やかにございました」
帰蝶は「そうか」と短く頷く。
その返事が、玉には救いだった。
余計な詮索はない。
だが、完全に信じてもいない。
帰蝶は、そういう女だ。
帰蝶は視線を外し、何気なく言った。
「それより玉。
ひと月後、宴がある」
玉の胸が跳ねた。
宴。
宴とは情報が溢れる場だ。
酒が入り、口が緩む。
気が大きくなる。
噂が飛ぶ。
(……来た)
玉は頭を下げたまま、内心で息を呑んだ。
帰蝶は続ける。
「夏の暑い夜だ。
殿も家臣らも集まる」
玉は思った。
(信長の機嫌を読む機会)
(家臣団の力関係を知る機会)
(誰が誰を嫌い、誰が誰を恐れているか)
(その空気が分かれば、父上の立ち位置も見える)
玉は声を整えた。
「宴の支度、お手伝い致します」
帰蝶はわずかに笑った。
「当然だ。
お前の料理は、皆が楽しみにしておる」
その言葉に、玉の背筋が伸びる。
期待されるのは嬉しい。
だが――同時に怖い。
(目立てば危険)
(目立たねば、情報は取れぬ)
玉は小さく拳を握った。
(この宴が、私の勝負)
帰蝶は扇を軽く叩き、言った。
「準備は忙しくなるぞ。
厨も、侍女も、皆が動く」
玉は頭を下げた。
「はい、奥方様」
帰蝶は玉を見つめ、静かに付け足した。
「……無理はするな」
その一言は意外だった。
玉は一瞬、顔を上げそうになった。
(帰蝶様が……気遣い?)
だが帰蝶の目は変わらない。
(違う)
(これは気遣いではない)
(私を壊したくないのだ)
(まだ、手元で使いたいから)
玉は笑みを消し、ただ頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます」
玉はその日から、いつも通りの生活に戻った。
朝は早い。
厨へ入り、下ごしらえをし、帰蝶の膳を整える。
火の扱い。
油の温度。
塩梅。
手を動かしながら、玉の頭は別のことを考えていた。
(宴には誰が来る)
(秀吉は来るか)
(柴田は)
(丹羽は)
(明智の名は出るか)
(将軍の噂は広がっているか)
(京の火種は、今どこにある)
玉は包丁を握りながら、心の中で呟く。
(私は料理で胃袋を掴む)
(胃袋を掴めば、口が緩む)
(口が緩めば、情報が落ちる)
(拾い集めれば、道が見える)
玉は鍋をかき混ぜながら、ふと笑った。
(私は戦を止めたいのに)
(やっていることは、戦の準備だ)
だが、止めるためには知るしかない。
玉は真剣に思う。
(父上の役に立つ)
(明智が軽んじられぬようにする)
(そして、細川に嫁がずに済む道を作る)
(その先で、炎を消す)
岐阜城の夏は蒸し暑い。
だが玉の胸の内は、それ以上に熱かった。
宴まで、ひと月。
時間はある。
だが、時間はすぐに尽きる。
玉は汗を拭い、火を強めた。
「よし……」
料理の香りが立つ。
その香りの中で、玉は静かに決意していた。
この宴で、必ず「次の一手」を掴む、と。




