第三十六話「試作」
京へ戻る道すがら、光秀の胸は久しく感じたことのない熱で満たされていた。
それは戦功への欲ではない。
野心でもない。
確信だ。
(玉の書いたものは、理に適っている)
(いや、理どころではない)
(戦そのものの形を変え得る)
だが同時に、光秀の中には冷たい警戒心があった。
(この知恵は、織田に知られてはならぬ)
(知られれば、奪われる)
(奪われれば、明智はただの「便利な手足」に戻る)
京へ入った光秀は、いつものように朝廷の使者に頭を下げ、寺社の僧に言葉を詰められ、公家に皮肉を浴びせられた。
それでも、心が折れなかった。
紙束の重みが、胸の奥で支えになっていた。
夜。
明智の宿所。
光秀は信頼できる配下だけを呼び集めた。
数は少ない。五名。
どれも古くから付き従い、口の堅い者たちだ。
部屋の戸を閉め、光秀は紙束を机に置いた。
「……これは、他言無用だ」
配下たちは顔を見合わせ、頷く。
光秀は紙を広げた。
大八車の図面。
それを見た瞬間、家臣のひとりが小さく息を漏らした。
「これは……荷車にございますか?」
「ただの荷車ではない」
光秀は静かに言った。
「兵を動かす車だ」
別の者が眉を寄せる。
「殿、荷車で戦が変わるとは……」
光秀は一度だけ目を上げた。
「変わる」
その声は短いが、揺るぎがなかった。
家臣たちは黙った。
光秀がこの調子のときは、すでに腹が決まっている。
数日後。
秘密裏に、試作が始まった。
鍛冶を呼ぶにも慎重を要した。
口の軽い者を使えば、明智の命取りになる。
光秀は、自分の手で人を選んだ。
「腕が良い者を。口が堅い者を。
金は惜しまぬ」
そう命じた。
木材を集め、車輪を削り、軸を整える。
だが――簡単ではなかった。
最初の試作は、車輪が重すぎた。
土の上で沈む。
段差で止まる。
次は軸が折れた。
荷の重さを見誤った。
配下が唸る。
「殿、やはり馬がなければ……」
光秀は首を振った。
「違う。重心が悪い」
図面を見直し、再び組み替える。
玉の描いた線は正しい。
だが実物は、木の癖、釘の強度、土の硬さ、すべてが絡む。
(机上の理と、地の理は違う)
光秀はそう思いながらも、妙に落ち着いていた。
(試行錯誤は、むしろ正しい)
(これは生きた仕組みになる)
三度目の試作で、車輪が滑らかに回り始めた。
引き手を握った兵が、目を丸くする。
「……軽い」
荷を載せてもなお、軽い。
光秀は息を吐いた。
(動く)
(本当に、動く)
その瞬間、光秀の脳裏に浮かんだのは信長の顔だった。
(これを見れば、必ず欲しがる)
だからこそ、今は隠さねばならぬ。
完成した試作車は、夜陰に紛れて京外れへ運ばれた。
場所は山中。
人目が少なく、試験には都合がいい。
さらに道が悪い。
悪路で動けば、どこでも動く。
光秀は配下と共に、試作車の前に立った。
荷を積む。
米俵。
槍束。
矢筒。
火薬樽。
積みすぎれば沈む。
少なすぎれば意味がない。
光秀は冷静に見極めた。
「……これでよい。引け」
兵が綱を握り、力を込める。
ぎ、と軋む音。
だが車輪は回った。
土を噛み、石を越え、傾斜を登る。
「おお……!」
家臣が思わず声を漏らした。
光秀の目が細くなる。
(これならば)
(明智は、戦の最中でも補給を切らさずに済む)
(これなら、長期戦にも耐える)
(兵が少なくても戦える)
その瞬間、光秀ははっきりと理解した。
これは便利な道具ではない。
これは、戦の背骨だ。
そして光秀は次の紙を開いた。
短い弩。
改良型クロスボウ。
光秀は家臣のひとりに目を向ける。
「これも試す」
家臣が驚いた。
「殿……それは……」
「今はまだ兵に持たせぬ」
光秀は淡々と言った。
「武将格の者のみだ。
使い方を覚えさせる」
配下が頷いた。
(これが広まれば、必ず織田も真似をする)
(ならば、まず明智が扱い方を掌握する)
(扱い方が武功になる)
山中の奥。
的を立てる。
弩を構えた武将が引き金を引く。
矢が飛び、木の幹に突き刺さった。
弓とは違う音。
弓はしなる音がある。
だが弩は――短く、冷たい音だった。
二射、三射。
命中。
武将が目を見開いた。
「……殿、これは……」
「弓のように腕はいらぬ」
光秀は静かに言った。
「だが殺せる」
その言葉に、山の空気が一段冷えた。
誰もが理解したのだ。
これは便利ではない。
これは恐ろしい。
光秀は弩を手に取り、構造を確かめる。
(この改良は正しい)
(中距離での制圧ができる)
(乱戦になる前に、敵の頭を落とせる)
光秀は胸の奥で、別の確信も抱いた。
(これを使えば、戦はさらに速く終わる)
(速く終われば、犠牲は減る)
だが同時に思う。
(速く終わる戦は、速く燃え広がる)
戦の火種は、より増えるかもしれない。
それでも。
今の明智には、必要だった。
試験が終わり、光秀は配下に言った。
「よいか。これは増産する」
配下の顔が引き締まる。
「ただし、口外すれば明智が滅ぶ。
織田に知られれば、奪われる。
奪われれば、我らの功は消える」
家臣たちは、深く頭を下げた。
「心得ました」
光秀は山を見上げた。
風が木々を揺らす。
その音が、京の喧騒よりずっと静かで、胸に沁みた。
(玉よ)
(お前の紙束は、確かに生きた)
(だが……この知恵は刃だ)
(使い方を誤れば、我らを滅ぼす)
光秀は懐に手を当てた。
紙束の感触が、まだそこにあった。
(私は、これで功を立てる)
(明智の立場を上げる)
(そして――)
脳裏に浮かぶのは、幼い娘の目だった。
(お前を守る)
光秀は、誰にも聞こえぬように小さく息を吐いた。
そして静かに命じた。
「帰るぞ。
夜明けまでに、すべてを隠せ」
配下が動く。
試作車は布で覆われ、弩は箱に収められた。
山の闇が、すべてを呑み込む。
だが光秀は知っていた。
この闇の中で生まれたものが、
やがて戦国の光と影を変えていくことを。




