第四十話「母の膳、父の胸」
翌朝。
明智の屋敷は、いつも通り静かだった。
庭では水が打たれ、蝉の声が暑さを増幅させている。
熙子は廊下を歩きながら、ふと空を見上げた。
(……玉は、今頃どうしているだろう)
岐阜城へ奉公に出てから、屋敷は広く感じる。
笑い声も減った。
けれど、あの子はただの子ではない。
そう思えば思うほど、胸の奥がざわつく。
守ってやりたい。
だが、守れるものではない。
熙子が座敷へ戻ろうとした、その時だった。
門の方が慌ただしい。
侍女が小走りで駆け込み、息を弾ませた。
「奥方様……!
岐阜より……織田様の城より、使いの者が参りました!」
熙子の足が止まった。
織田。
その二文字だけで、背筋が冷たくなる。
(何事……?)
熙子は表情を崩さぬまま、声を落とした。
「……通しなさい」
板間を踏む足音。
使者は頭を深く下げ、包みを差し出した。
黒塗りの箱。
丁寧に結ばれた紐。
香りが――すでに漂っている。
甘く、焦げたような匂い。
熙子の心臓が一瞬だけ跳ねた。
(……これは)
使者が言う。
「岐阜城、帰蝶様より。
『明智の奥方様へ』と」
帰蝶。
その名を聞いて、熙子は息を呑んだ。
(帰蝶様が……私に?)
箱を受け取った侍女が蓋を開けると、座敷に香りが満ちた。
鰻の蒲焼。
照り。
艶。
炭火の香り。
その横には小さな壺。
黒い液体。
熙子は見つめた。
(醤……?)
(いや、これは……味噌でも、たまりでもない)
胸の奥に、熱いものがこみ上げた。
恐れではない。
懐かしさでもない。
――これは、あの子の匂いだ。
熙子は確信する。
(玉だ)
(玉が……殿の席で、これを出したのだ)
(そして、私に届けた)
侍女が恐る恐る言った。
「奥方様……召し上がりますか」
熙子は頷いた。
「……ええ。頂きましょう」
声は落ち着いていた。
だが心の中では、激しく波が立っていた。
(玉は、どれほどの場所にいるのか)
(殿の席に料理を出すなど……)
(普通の奉公ではない)
(危うい)
(けれど……)
熙子は箱の中に添えられた文を見つけた。
薄い紙。
丁寧な字。
そこには短く書かれていた。
『この蒲焼は温め直すなら、蒸すがよし。
火に直にかければ固くなる。
黒き雫は、少し垂らすだけで味が締まる。
吸い物にも、煮物にも使える』
熙子の指が、紙の上をなぞる。
(……玉の字に似ている)
(だが帰蝶様の文かもしれぬ)
(けれど……)
熙子は、その文面から感じ取ってしまった。
優しさ。
気遣い。
誰かが「母に届けたい」と願った痕跡。
熙子は胸の奥がきゅっと締め付けられた。
(生きている)
(玉は、生きている)
(岐阜城で、息をしている)
それだけで、涙が出そうになる。
だが熙子は堪えた。
この屋敷で泣けば、噂になる。
噂は毒になる。
熙子は膳を整えさせた。
蒲焼を皿に移し、湯気を立てる。
吸い物を温める。
香りが立つたび、熙子の胸が揺れる。
(この香り……)
(まるで、夏そのものだ)
熙子は箸を取り、一口食べた。
その瞬間。
口の中に甘さが広がり、次いで深い塩気が追いかける。
脂が濃いのに、くどくない。
香ばしさが舌に残り、吸い物の澄んだ出汁がそれを洗い流す。
熙子は目を閉じた。
(……これは)
(殿が喜ぶわけだ)
(武将が驚くわけだ)
そして、次に黒い雫を指先で少し垂らして食べた。
味が締まった。
甘さが引き締まり、香りが増す。
熙子の胸に、奇妙な確信が落ちる。
(この雫……)
(これは戦を変える味だ)
食は兵の力になる。
殿の機嫌を動かす。
家臣の心を掴む。
熙子は箸を置き、静かに息を吐いた。
(玉は……生き延びるために、これを作ったのだ)
(ただの料理ではない)
(生きるための刃だ)
熙子の胸に、誇りが灯った。
同時に、恐ろしさもあった。
(あの子は、織田の中枢に近づきすぎている)
(だが……)
熙子は膳を見つめ、心の中で呟いた。
(それでも)
(あの子が選んだ道なら、私は支える)
熙子は食後、すぐに筆を取った。
そして、文をしたためる。
宛先は――京。
夫、明智十兵衛光秀へ。
『岐阜より、帰蝶様より蒲焼と黒き雫が届きました。
添え文には使い方が書かれており、心が通っておりました。
味は驚くほど深く、殿が喜ばれるのも道理にございます。
玉が無事であること、何よりの知らせにございます』
熙子は筆を止めた。
(玉が作ったとは、書かぬ)
(確信はあるが、書いてはならぬ)
(誰の目に触れるか分からぬ)
だが、最後に一文だけ添えた。
『この味には、優しさがございました』
それが玉だと、光秀なら分かる。
そう思った。
京。
宿所にて。
光秀は日中の政務を終え、ようやく座を取ったところだった。
朝廷の使者。
寺社の訴え。
織田の命令。
そして、武将たちの軽い視線。
光秀は疲れていた。
だが顔には出さぬ。
出せば負けだ。
そこへ、使いが文を差し出した。
「殿。奥方様よりにございます」
光秀の指が止まった。
熙子からの文。
その封を切る手が、わずかに速くなる。
光秀は文を開き、目を走らせた。
『岐阜より、帰蝶様より蒲焼と黒き雫が届きました――』
光秀の眉が動いた。
(帰蝶が……熙子に?)
次の行を読む。
『玉が無事であること、何よりの知らせにございます』
その一文で、光秀の胸の奥が、強く鳴った。
(……玉)
光秀は続きを読む。
『味は驚くほど深く――』
『この味には、優しさがございました』
光秀は文を閉じた。
しばらく、黙った。
外の蝉の声が、やけに遠く聞こえる。
光秀の心の中に、ひとつの像が浮かぶ。
岐阜城で、あの小さな背が厨に立ち、火を見ている姿。
油の匂い。
炭火の煙。
汗を拭いながら、それでも手を止めない姿。
(玉は……)
(生きるために戦っている)
光秀は静かに息を吐いた。
驚きがあった。
(帰蝶が、我が屋敷に食を届ける)
それはただの気まぐれではない。
織田の奥方が、明智に目を向けたということ。
感心もあった。
(玉は、宴席で殿の舌を掴んだのだろう)
(そしてその褒美を、母へと使った)
それは、賢い。
欲を見せず、情を見せる。
それでいて――織田と明智を繋ぐ。
(あの子は……恐ろしいほどに理を知っている)
だが疑問が残る。
(なぜ、そこまで出来る)
(誰が教えた)
(何を見て、何を知った)
光秀はふと、玉の紙束を思い出す。
兵站。
車輪。
弩。
あれも同じだ。
(玉は、どこからこの知恵を得た)
(旅の者、か)
光秀は思い出す。
玉が言った言葉。
「旅の者が……」
光秀は小さく笑いそうになった。
だが笑えない。
疑えば疑うほど、怖い。
(追えば、玉は壊れる)
(だが放置すれば、玉は危うい)
光秀は目を閉じた。
そして、胸の奥に湧き上がる感情を押し込める。
父としての情を。
今は、武将でなければならない。
光秀は文を握りしめ、静かに呟いた。
「……ありがたいことだ」
その声は、誰にも聞こえない。
だが胸の奥では、確かに火が灯っていた。
(玉は生きている)
(明智はまだ、終わっていない)
そして光秀は思った。
(この黒き雫)
(この蒲焼)
(これはただの料理ではない)
(織田の中心に、明智の名を置く楔だ)
光秀は文を机に置き、深く息を吐いた。
(玉よ)
(お前は、私の想像を超えている)
(ならば私は――)
光秀の目が、静かに鋭くなる。
(その知恵を無駄にせぬ)
(明智の立場を上げる)
(織田の中で、踏み潰されぬように)
光秀は筆を取った。
返書を書くために。
その筆先が震えなかったことに、光秀自身が少し驚いた。
心は削れている。
だが、折れてはいない。
まだ戦える。
まだ守れる。
そう思わせる味が、
確かにこの文の中にあった。




