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細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


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第三十四話「帰郷の許し、戦の備え」

玉は、朝の空気がいつもより冷たいことに気づいていた。

岐阜城の廊下を歩く足が、自然と早くなる。


胸がざわつく。

不安ではない。

期待でもない。

――焦りだ。


部屋に戻ると、侍女が一通の文を差し出した。

「玉様、明智の奥方様より文にございます」

紙を受け取った瞬間、指先がわずかに震えた。


封を切る。

母、熙子の筆。

「殿、まもなく一時、屋敷へお戻りになられます。

そなたにも会いたいと申されております」


玉は息を止めた。

(父が帰ってくる)

胸の奥が熱くなる。

会いたい。


だが、それ以上にこの機会を逃したくなかった。

(今、父に渡せるものを渡さねばならない)

(ただの娘の言葉では、父は動けない)

(父が戦功を立てれば、明智の扱いが変わる)

(扱いが変われば、京で削られる心も守れる)


玉は文を握りしめ、立ち上がった。

行くべき場所は決まっている。

帰蝶のもとだ。


帰蝶の部屋へ入ると、奥方はいつものように静かに座していた。

だが玉が入った瞬間に、視線が動く。


すべてを見抜く目。

玉は膝をつき、深く頭を下げた。

「奥方様。お願いがございます」

帰蝶は扇を指で軽く叩きながら言った。


「申せ」

玉は言葉を慎重に選んだ。

「実家より文が参りました。

父、明智が、一時屋敷へ戻るとのこと。

一日だけ里へ帰る許しを頂きとう存じます」


帰蝶の目が細くなる。

「……光秀殿が戻る、か」

その声には、わずかな含みがあった。

玉は心の中で息を殺す。

(疑われている)

(だが、ここで怯んではならぬ)


帰蝶は玉をじっと見た。

「お前は、帰るのか」

玉はまっすぐ答える。

「はい。父と母を安心させたいのです」


帰蝶は沈黙した。

そして、ふっと口元を歪めた。

「よい。行け」

玉の胸がほどけた。

「……ありがたき幸せにございます」


帰蝶は扇を閉じたまま続ける。

「だが、余計なことを言うな。

明智の家は今、軽く見られれば終わる」


玉は深く頭を下げた。

「心得ております」

帰蝶は視線を外し、淡々と付け足す。

「一日だ。翌日には戻れ」


玉は深く頭を下げた。

「必ず」

部屋へ戻った玉は、すぐに紙を広げた。

(時間がない)

(父に会えるのは短い)


父は忙しい。

娘と語らうために帰るわけではない。

だからこそ――。

(渡すべきは、言葉ではない)

(形だ)


玉は筆を取った。

まず書いたのは、戦の根である。

兵站。

この時代の者は、戦の勝敗を「武勇」と「策」だけで語る。

だが玉は知っている。

勝つ戦は、腹が勝つ。


食料が切れた瞬間、兵はただの民になる。

武器が尽きた瞬間、勇はただの死に変わる。

玉は紙に大きく書いた。


「戦とは、兵を運ぶにあらず

物を運ぶことにあり」

そして図を描いた。

荷駄ではない。


必要なものが必要な時に届く仕組み。

絶えず矢、槍、火薬、食糧が流れ込む仕組み。

補給の流れ。

「戦備補強」。


玉は、前世の記憶を引きずり出した。

(リヤカー……)

木で作れる。

人の手で引ける。

馬がいなくても運べる。

狭い道でも使える。


玉は大八車の構図を描き、そこに改良を加えた。

車輪の位置、荷台の重心、引き手の角度。

少人数で動かせるように。


そして注釈を添える。

「兵十に対し、荷駄一

これを増やせば、兵は減らしてよい」

(父なら分かる)

(父は速い)

(父は計算する男だ)

玉はさらに筆を走らせた。


次は武器。

短めのクロスボウ。

一人一人に持たせるための改良型。

弓の訓練は時間がかかる。

だが弩なら、訓練が少なくても殺せる。

中距離での制圧。

乱戦になる前に敵を減らす。

玉は構図を書いた。


引き金。

弦。

木のしなり。

矢の装填。

そして注釈。

「弓の者を育てるには年が要る

弩は、明日兵にできる」

玉の背筋が冷えた。

(私は何を書いている)

(これは人を殺すための道具だ)


だが玉は筆を止めない。

(父が生きるためだ)

(明智が生きるためだ)

(私が燃えないためだ)


次に書いたのは棒火矢。

弓の先に火薬を装填したもの。

直接の殺傷ではない。

恐怖と混乱を撒く武器。


夜襲。

陣崩し。

敵の馬を怯えさせる。

玉は図面に火薬の詰め方、導火線の長さ、湿気対策を書き留めた。


「殺すより先に、崩せ」

その言葉は、玉の本音だった。

戦は勝てばいい。

長引けば負ける。

最後に玉は、戦ではないものを書いた。

父の心を守るためのもの。


石鹸。

香り付き。

油と灰汁を使う。

香りは花。

沈丁花、菊、梅。

手を洗うだけではない。

血の匂いを落とすため。

そして眠るため。

さらに香。

花を乾燥させ、練り、焚く。

香りは精神を落ち着かせる。

疲れた夜、眠れぬ夜。

京で削られる父に、少しでも息をさせるため。


玉は筆を止め、紙の束を見つめた。

(多すぎるかもしれない)

(だが、渡さねばならない)

(父は一人で背負いすぎる)

玉は紙を丁寧に束ね、布で包んだ。

胸の奥が少しだけ落ち着いた。

その日のうちに玉は城を出た。


岐阜から明智の屋敷へ。

道中、揺れる籠の中で玉は何度も深呼吸をした。

(父はどういう顔をする)

(信じるか)

(疑うか)

(怒るか)

玉は拳を握る。

(怒られてもいい)

(疑われてもいい)

(ただ、聞いてくれ)

屋敷に着くと、母が迎えに出ていた。


熙子は玉を見た瞬間、表情を崩しそうになったが堪えた。

「……よく帰ったな」

玉は深く頭を下げた。

「母上」

熙子の目には、安堵と不安が混じっていた。

母は、すべて分かっている。


私が普通の子ではないと。

だが熙子は何も言わない。

ただ玉の髪をそっと撫でた。

「疲れたであろう。湯を用意させる」


玉は首を振った。

「父上は……」

熙子は小さく頷いた。

「もうすぐ戻る」

玉の心臓が跳ねた。


そして。

門が騒がしくなる。

「殿のお帰りだ!」

家臣の声。

足音。

鎧の擦れる音。

父が帰ってきた。


玉は廊下に正座し、頭を下げた。

板間を踏む足音が近づき、やがて止まる。

次いで、草履を脱ぐ気配。

その瞬間、空気が張り詰めた。

襖が開く。


父、明智十兵衛光秀が入ってくる。

玉は顔を上げた。

光秀は疲れている。

だがそれ以上に、目が冷えていた。

京の冷えを持ち帰った目。


玉は思った。

(……間に合え)

光秀は玉を見下ろした。

「玉か」

その声は静かだった。

玉は深く頭を下げる。

「父上。お帰りなさいませ」

光秀はわずかに頷き、座に着いた。


熙子が茶を差し出す。

光秀はそれを口に含み、息を吐いた。

「……岐阜におると聞いたが」


玉は答える。

「帰蝶様のもとにおります。

無事に過ごしております」

光秀の目が玉を測る。


父は疑う。

だが父は、娘を信じたい。

玉は包みを差し出した。

「父上。お疲れのところ恐れ入ります。

これを……お目通し頂きたく」


光秀は包みを受け取った。

中の紙束を見た瞬間、眉が動く。

「……何だ、これは」


玉は静かに言った。

「戦に勝つために必要なことを、書き留めました」


光秀の目が細くなる。

「お前が?」

玉は頷いた。

「はい」

光秀は紙を開き、目を通す。


兵站。

大八車の構図。

弩。

棒火矢。

火薬の扱い。

補給線。


光秀の顔色が、少しずつ変わっていく。

驚きではない。

――理解の色。

父は分かっている。


これは遊びではない。

これは実際に使える。

玉は息を殺した。


光秀は紙を閉じ、玉を見た。

「……誰に教わった」

来た。

玉は心の中で身構えた。

「旅の者が、少し……」


光秀はそれ以上問わなかった。

ただ短く言った。

「……そうか」

その声には、疑いがある。

だが、追い詰める刃はない。

玉の心臓が、強く脈打つ。


光秀は紙束をもう一度見下ろし、静かに言った。

「旅の者、か」

その言葉は呆れでも怒りでもなく、

娘の何かを受け入れるための諦観だった。


熙子が、息を呑む。

玉は頭を下げた。

「父上。私は……ただ」

言葉が詰まった。


本当のことは言えない。

未来を知っているなど言えない。

転生など、言えるはずがない。


だから玉は、真実だけを口にした。

「父上に、生きていてほしいのです」

その一言は、嘘ではない。

光秀の目がわずかに揺れた。


そして、光秀は紙束を丁寧に畳み直し、懐へ入れた。

「……預かる」

それだけ言った。

玉の胸が熱くなった。

(受け取った)

(父は受け取った)

光秀は立ち上がり、玉の頭に手を置いた。


ほんの一瞬だけ。

「無事でおれ」

その言葉は命令ではない。

願いだった。


玉は深く頭を下げた。

「はい。父上」

光秀は襖の向こうへ去っていく。


玉はその背を見ながら、胸の内で呟いた。

(これでいい)

(少しずつでいい)

(私は未来を変える)

そして。

(私は燃えない)

玉は握りしめた拳を、そっとほどいた。

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― 新着の感想 ―
たまたま見つけ、主人公がどう歴史に抗っていくのか楽しく読ませていただいています。 しかし、弩ですか。正直、日本で弩を作る位なら、その金で種子島を一丁でも調達した方が良いんですけどね。だって、弩を作って…
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