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細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


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第三十三話「殿の舌、奥方の愉悦」

(帰蝶視点)

その日、帰蝶の胸は妙に落ち着かなかった。

落ち着かぬ、というより――

久方ぶりに、心が浮き立っていた。


玉が持ってきた料理。

鰻の蒲焼。

黒い艶。

炭火の香り。

そして、黒き雫――醤油。

あの味は、殿の舌を必ず動かす。


帰蝶は確信していた。

(殿は濃い味を好む)

(そして、驚く)

(驚いた顔を見られる)

それが楽しみで仕方がない。


戦の話で眉間に皺を寄せ、

人の首を刈ることに迷いを持たぬ男が、

たった一口で目を見開く。


その瞬間を想像するだけで、帰蝶の口元が緩みそうになる。

(……私は何をしている)

心の中で呆れながらも、止められない。


女の愉悦とは、時に恐ろしい。

帰蝶は侍女に命じ、座を整えさせた。

「殿がお入りになる。

茶も用意せよ」

そして玉にも告げた。

「蒲焼は熱いうちに。

椀は香りが立つように」


玉は深く頭を下げた。

「はい」

その声は小さいが、揺れていない。

(この子も、この場を戦と知っている)

帰蝶はそのことが、どこか嬉しかった。


しばらくして。

板間を踏む足音が近づき、やがて止まった。


それだけで部屋が張り詰めた。

信長が来る。

その気配だけで、部屋の温度が変わる。

襖が開き、信長が入ってきた。


いつものように堂々と。

まるでこの世の全てが自分のものだと言わんばかりの歩み。


帰蝶は立ち上がり、静かに頭を下げた。

「殿。お疲れのところ、恐れ入ります」

信長は帰蝶を見て、口元を歪めた。

「……何だ、その顔は」


帰蝶は扇を開き、口元を隠す。

「新たなる料理を、殿に食していただきたく」

そして、わざと微笑んだ。


にこり、と。


信長はその微笑を見た瞬間、目を細めた。

(また何か企んでいる)


信長の心の声が、帰蝶には手に取るように分かった。


信長は鼻で笑う。

「帰蝶」

「はい」

「お前は、俺を驚かせるのが好きだな」


帰蝶は扇の陰で微笑んだ。

「殿が驚かれる顔は、稀にございますゆえ」


信長は短く笑った。

「ふん……」

だが、その「ふん」は不機嫌ではない。

むしろ、面白がっている。


信長は畳に腰を下ろし、胡坐をかいた。

「よい。付き合ってやる」


帰蝶は胸の内で笑う。

(付き合ってやる、などと)

(殿はいつも、こういう時だけ子どもになる)


玉が入ってくる。

盆を抱え、慎重に。

玉は目立たぬように動くが、今日ばかりは違う。

この場で目立つのは玉だ。


殿の舌を動かすのは玉の料理。

奥方の愉悦を満たすのも玉の料理。


帰蝶は、玉の横顔を盗み見た。

(緊張している)

(だが、怯えてはいない)


信長が玉を見る。

「お前か」

玉は深く頭を下げる。

「玉にございます」

信長は口元を歪めた。

「また妙なものを作ったと聞く」

玉は何も言わず、料理を並べた。


蒲焼。

椀。

飯。

香りが立つ。

炭火と醤の匂いが、部屋に広がった瞬間。


信長の鼻が、わずかに動いた。

帰蝶はそれを見て、胸が躍った。

(気づいた)

(殿の鼻が動いた)


信長は皿を見下ろす。

黒い艶。

焦げ目。

照り。

「……魚か」

信長の声は低い。

だが、その声に僅かな興味が混じる。


帰蝶は静かに答える。

「鰻にございます」

信長は眉を上げた。

「鰻をこうするか」

信長の心の声が響く。

(焼き魚は見慣れている)

(だが、これは……香りが違う)

(味噌でもない)

(塩でもない)


信長は箸を取った。

蒲焼を一切れ切り、口へ運ぶ。

帰蝶は、息を止めた。


次の瞬間。

信長の目が、僅かに大きく開いた。

ほんの一瞬。

だが確かに。


帰蝶の胸が弾けた。

(……来た)

信長は噛む。

ゆっくり噛む。

噛むほどに、醤の香りが鼻へ抜ける。

炭の香が舌に残る。

甘みが追いかける。

脂が、重くない。

むしろ――旨味になっている。


信長の心の声が、帰蝶の想像を超えて膨らむ。

(なんだ、この味は)

(濃い)

(濃いのに、嫌味がない)

(舌に残るのは塩辛さではない)

(香りだ)

(甘みだ)

(……旨味だ)

信長は二切れ目を食べた。

三切れ目を食べた。


帰蝶は扇の陰で笑いそうになる。

(殿、止まらぬ)

(分かりやすい男)

信長は箸を止めずに言った。

「帰蝶」

「はい」

「これは何を使った」


帰蝶はわざと知らぬ顔で答えた。

「玉が申すには、黒き雫にございます」

信長の眉が動く。

「黒き雫?」


帰蝶は静かに言う。

「醤油、と名付けたそうにございます」

信長は口の中で味を確かめるように、もう一度蒲焼を食べた。


そして、ふっと笑った。

「醤油……」

その響きを、面白がるように。

信長の心の声。

(味噌の汁を濃くしたか)

(いや、違う)

(これは汁ではない)

(これは――武器だ)


帰蝶は、その言葉に内心で頷いた。

(そうだ)

(殿も分かる)

料理は武器。

舌を支配すれば、心が動く。


信長は椀に手を伸ばした。

蛤のお吸い物。

一口飲む。

信長の目が、また動いた。

「……澄んでいる」

信長は呟いた。

その声は驚きではなく、感心だった。


信長

(濃いものを食わせておいて)

(次にこれを出すか)

(舌が整う)

(計算している)

信長は箸を置き、帰蝶を見た。

その目は鋭いが、怒りはない。

むしろ、愉快そうだ。

「帰蝶」

「はい」

「お前が考えたか?」

帰蝶は微笑んだ。

「私ではございませぬ」

信長は玉を見た。

玉は視線を伏せている。

だが伏せた目の奥に、緊張が見える。


信長は言った。

「玉」

玉は小さく答えた。

「はい……」

信長は蒲焼の皿を指した。

「これは、どこで覚えた」


玉は準備していた言葉を出す。

「旅の者が……」

信長は鼻で笑った。

「また旅の者か」


帰蝶は扇の陰で思う。

(殿は疑うが、深追いはせぬ)

(旨ければ良い)

(殿はそれで動く)

信長は立ち上がった。

「よい」


そして帰蝶に言った。

「宴で出せ」

帰蝶は深く頭を下げた。

「承知いたしました」


信長はさらに続ける。

「家臣の顔が見たい」


その言葉に、帰蝶の胸がまた躍った。

(殿も同じだ)

(驚く顔を見たいのだ)


信長は最後に玉へ視線を落とした。

「お前、厨に置け」

玉の肩が僅かに揺れた。

褒美か、鎖か。

どちらでもある。


信長

(この娘は面白い)

(舌を操る)

(舌を操れる者は、人を操れる)

(帰蝶の玩具にしておくには惜しい)

帰蝶はその視線の意味を悟り、胸の奥が少しだけ冷えた。

(殿が、玉に興味を持った)

(これは危うい)

(殿に近づきすぎれば、玉は燃える)


だが帰蝶は微笑みを崩さない。

蝮の娘は、感情を見せない。

信長が去り際に言った。

「帰蝶」

「はい」

「良いものを持っているな」


帰蝶は頭を下げた。

「殿のお力添えあってこそ」

信長は笑い、襖の向こうへ消えた。

部屋に残ったのは、香りと静けさ。

帰蝶は扇を膝に置き、玉を見た。


玉はまだ頭を下げたまま、息を殺している。

帰蝶は心の中で呟いた。

(殿は驚いた)

(私は見た)

(あの男が、舌で目を見開くところを)

帰蝶は、ほんの僅かに微笑んだ。

そして、次の景色を想像する。


宴の席。

家臣団が集まる。

勝家が唸る。

秀吉が笑う。

丹羽が目を細める。

そして信長が、優越した顔をする。


帰蝶は胸の奥で静かに笑った。

(面白い)

(天下を動かすのは刀だけではない)

(舌だ)

(腹だ)

帰蝶は玉に言った。

「玉」

玉が顔を上げる。


帰蝶は淡々と告げた。

「お前は、殿の舌を掴んだ」

玉の目が揺れる。

帰蝶は続ける。

「だが掴んだ舌は、いつでも噛み切る牙になる」

玉は息を呑む。

帰蝶は扇を開き、口元を隠した。

「生き残れ。

生き残れば、お前の望む道も見える」

玉は小さく頷いた。

「……はい」


帰蝶は心の内で呟いた。

(玉)

(お前は私の手元で、どこまで化ける)

岐阜城の夜。

黒き雫は、信長の舌を動かした。

そして帰蝶の心もまた、確かに動かしていた。

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