第三十話「宴、舌が天下を動かす」
宴当日の朝。
岐阜城の厨は、夜が明ける前から火が入っていた。
まだ空が青くもならぬうちに、煙が立ち、湯気が立ち、油の匂いが立つ。
玉は、その中にいた。
小さな身体で、誰よりも速く動いていた。
鍋の位置を変え、炭の火を調整し、肉を仕込み、豆を煮る。
手を止めれば、全てが崩れる。
(……こんな人数)
(こんな量)
玉は息を吐きながら思った。
前世でも、これほどの大人数の料理を「同時に」「冷めぬうちに」出した経験はない。
宴は、ただ料理を作る場ではない。
段取りを作る場だ。
料理は、味だけでは勝てない。
温度が命。
香りが命。
出す順が命。
まるで懐石のように、冷めぬうちに出し、次を仕上げ、また出す。
それを何十人分も、間違いなく。
(計算しなければ)
(段取りを誤れば、全てが台無し)
玉は額の汗を袖で拭い、心の中で手順を繰り返した。
油の温度。
衣の水分。
肉の火の入り。
塩の加減。
そして最後。
氷。
氷室から運ばれる氷は、少ししかない。
失敗すれば、二度と許されない。
玉は一瞬だけ、指を止めた。
父の顔が浮かぶ。
明智光秀。
静かな目。
疲れた背中。
(父上……)
(私は今、ここで未来を変える)
(父上の心が削れる前に)
(父上が火の中へ踏み込む前に)
玉は拳を握った。
(ここが正念場)
そして自分に言い聞かせる。
(怖いなら、動け)
(考えるな、手を動かせ)
玉は再び包丁を握った。
刻む音が、厨に響く。
その音は戦の音だった。
昼を過ぎた頃。
厨の外が騒がしくなった。
家臣たちが集まり始めたのだ。
武将の声。
鎧の擦れる音。
草履の音。
空気が変わる。
厨の女たちも顔色を変えた。
「今日は大事な宴だ」
そう言われなくても分かる。
玉は油の鍋を見つめながら、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
(失敗は許されない)
(失敗すれば――)
(帰蝶様の顔に泥を塗る)
(明智の名を汚す)
(そして私は――終わる)
玉は唇を噛んだ。
だが、その怖さの中に、奇妙な高揚があった。
(……面白い)
(私は今、戦場に立っている)
刀を持たずに。
料理だけで。
広間。
家臣たちが次々と座につく。
柴田勝家。
丹羽長秀。
滝川一益。
羽柴秀吉。
佐々成政。
それぞれが笑いながらも、目は鋭い。
笑いの裏で互いを測り合っている。
信長が座す。
帰蝶がその横に控える。
そして帰蝶の少し後ろに、玉。
玉は視線を伏せ、息を整えた。
(……この場の空気)
(重い)
(男たちの腹の底が見えるようだ)
宴は宴ではない。
政治だ。
信長が声を出す。
「此度の話だが――」
家臣たちは一斉に姿勢を正した。
話が始まる。
信長の言葉は短く、鋭い。
冗談も混じるが、刃が混じる。
家臣たちは笑う。
だが笑い方が硬い。
笑いの中に、恐れがある。
玉はそれを聞きながら思った。
(父上も、この場でいつも削られていくのだろうか)
(この男たちの前で)
(信長の前で)
玉は、拳を袖の中で握りしめた。
(私は……父上をこういう場所に戻したいわけではない)
(でも父上が生き残るためには)
(この場所の空気を変えねばならない)
信長の話が終わる。
「さて」
信長が扇を軽く叩いた。
「腹が減った。出せ」
その一言で、厨が動く。
最初の料理が運ばれる。
焼き物。
汁。
香の立つ煮物。
どれも丁寧で、武家らしい料理だ。
家臣たちは箸をつけ、軽く言葉を交わす。
「帰蝶様の御膳は相変わらず見事」
「岐阜の厨は腕が良い」
社交の言葉。
だが、それはまだ表面だ。
そして次。
玉の合図で、厨の女たちが一斉に盆を運び始めた。
――唐揚げ。
揚げた鳥が、湯気を立てて広間に並ぶ。
香ばしい匂いが、座を満たした瞬間。
空気が止まった。
誰もが鼻を動かす。
「……何だ、この香りは」
「鳥か?」
「揚げたのか?」
家臣たちの声がざわつく。
信長の目が、わずかに大きく開いた。
その一瞬を、帰蝶は見逃さなかった。
帰蝶の胸が躍る。
(来た)
(殿が驚いた)
帰蝶は扇で口元を隠しながら、笑いを噛み殺した。
信長は箸を取る。
そして、無造作に口へ放り込んだ。
ぱり、と衣が鳴った。
その音が、広間に響く。
信長の眉が動く。
家臣たちが、信長の顔色を伺う。
そして信長は、口元を歪めた。
「……ほう」
その声が落ちた瞬間。
家臣たちの緊張が一段緩んだ。
信長が気に入った。
それが分かったからだ。
柴田勝家が、慎重に一つ食べる。
そして、目を見開いた。
「……これは」
丹羽長秀が口に入れ、思わず声を漏らす。
「衣が軽い……!」
羽柴秀吉は、口に入れた瞬間、笑った。
笑いが止まらないような顔で言う。
「こりゃあ、面白い味ですなぁ……!」
滝川一益が低く唸る。
「揚げ物でここまで香が立つとは……」
感嘆の声が、波のように広がった。
その様子を見て、信長は「してやったり」という顔をした。
まるで自分の手柄のように。
帰蝶はその顔を見て、微笑む。
(殿は、こういう時の顔が一番子どもだ)
帰蝶の微笑みは、蝮ではなかった。
妻の微笑だった。
だが、それで終わりではない。
唐揚げの皿には、もう一つ。
白い器が添えられていた。
白い、滑らかな、粘りのあるもの。
信長がそれを見た瞬間、目が止まった。
「……これは何だ」
家臣たちもざわめく。
「白い……味噌か?」
「いや、違う」
「酢の香がするぞ」
秀吉が器を覗き込み、興味深そうに笑う。
「ほほう……これはまた妙なものを」
信長は箸の先で、その白いものをすくい、唐揚げにつけた。
口に入れる。
一瞬。
信長の目が、また大きく開いた。
今度は、はっきりと。
帰蝶の胸が弾ける。
(殿が……驚いた!)
信長は、もう一つ食べた。
唐揚げに白いものを絡め、また食べる。
「……旨い」
その声が落ちた瞬間、家臣たちが一斉に手を伸ばした。
柴田勝家が食べ、眉を寄せる。
「酸味……?」
丹羽長秀が頷く。
「脂が消える……!」
秀吉が目を輝かせる。
「こりゃあ……鳥がいくらでも入りますな!」
座が笑いに包まれた。
笑いが起きる宴は、良い宴だ。
信長が笑えば、家臣は笑う。
信長が楽しめば、家臣は安心する。
玉はその光景を見ながら、胸の奥が熱くなった。
(成功した)
(今、空気が変わった)
(父上がこの場にいても)
(少しは息が出来る空気だ)
玉は、思わず少しだけ微笑んでしまいそうになった。
だがすぐに表情を戻す。
(まだだ)
(まだ、終わっていない)
信長が扇を叩いた。
「おい、帰蝶」
帰蝶が静かに応える。
「はい」
信長は白い器を指した。
「これは何という料理だ」
帰蝶は一瞬、玉へ視線を送った。
玉の喉が鳴る。
(来た……)
信長が聞いている。
この場で。
玉は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「恐れながら申し上げます。
それは、卵と油と酢を合わせ、刻んだ漬物を混ぜたものにございます」
信長は眉を上げた。
「卵と油と酢?」
玉は頷く。
「はい。混ぜ続ければ、ひとつの味になります」
信長は、ふっと笑った。
「混ぜ続ければ、ひとつになる、か」
その言葉には、料理以上の意味が含まれていた。
家臣たちも、信長の言葉に少しだけ黙る。
信長は器を見つめ、もう一度口に入れた。
そして言った。
「面白い」
その声が、広間に響いた瞬間。
帰蝶は微笑んだ。
(殿が満足している)
(この宴は、勝った)
信長は続ける。
「この娘を、厨に置いておけ」
帰蝶は頭を下げる。
「承知いたしました」
玉は胸の奥が震えた。
(置いておけ)
それは褒美であり、鎖でもある。
だが玉は思った。
(鎖でもいい)
(ここにいなければ、未来は変えられない)
料理は続く。
揚げた肉。
香草を散らしたもの。
冷やした果実。
家臣たちの声が弾む。
「これは何だ」
「また妙なものが来たぞ」
「誰が考えた!」
秀吉は完全に興味を抑えられず、笑いながら言った。
「奥方様、これは商いに出来ますぞ!」
信長が笑う。
「商いなどどうでもよい。
旨いものは、力になる」
その言葉に、家臣たちは深く頷いた。
玉はその様子を見て思う。
(信長は、舌で天下を見ている)
(食は、力)
(だからこそ、この男は強い)
帰蝶はその横で、扇を閉じたまま微笑んでいた。
(玉)
(お前は、殿の心を動かした)
(殿の驚く顔を、私は見た)
帰蝶の胸の奥が、久しぶりに軽かった。
戦国の世で、女が笑える瞬間は少ない。
だが今宵は、その少ない瞬間だった。
そして最後。
氷。
氷室から出した氷を砕き、器に盛る。
その上に果実を置き、甘味を添える。
冷気が立つ。
家臣たちがざわめく。
「……氷?」
「この季節に?」
「まさか……!」
信長の目が光った。
帰蝶は微笑む。
(ここだ)
(玉の切り札)
玉は氷の器を信長の前に置き、深く頭を下げた。
信長は器に触れ、指先で冷たさを確かめる。
「……冷たい」
その声は、驚きと喜びが混じっていた。
信長は果実を口に入れた。
次の瞬間。
信長が、はっきりと笑った。
声を出して笑った。
家臣たちは驚き、そして一斉に笑った。
笑いが広間を満たす。
信長は言った。
「帰蝶。よい宴だ」
帰蝶は深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
信長は、氷を眺めながら呟いた。
「天下は……面白いな」
その言葉を聞いた瞬間、玉の胸の奥が震えた。
(天下は面白い)
その言葉が出た時、信長は機嫌が良い。
機嫌が良い時は、人は油断する。
油断すれば、言葉が落ちる。
玉はその空気を吸い込みながら思った。
(ここからだ)
(ここから私は、耳を掴む)
(父上の未来を変えるために)
宴は成功した。
だが、成功したからこそ次が怖い。
信長が玉を覚えた。
家臣が玉を見た。
帰蝶が玉を囲う。
その全てが、玉の運命を強く縛る。
それでも玉は、心の中で小さく笑った。
(楽しい)
(怖いのに、楽しい)
それは戦の高揚だった。
そして玉は、父の背を思い浮かべる。
(父上)
(私は一歩、進みました)
岐阜城の宴は、笑いに包まれて終わった。
だがその笑いの裏で、
玉という名の小さな駒が、確かに天下の盤面に置かれた夜だった。




