第二十九話「献立は、刃になる」
帰蝶の部屋に通されると、玉はいつもより深く息を吸った。
畳の匂い。
香の匂い。
そして、あの女の気配。
帰蝶は文机に向かい、筆を走らせている。
玉が膝をついても、すぐには顔を上げない。
それが帰蝶という女の癖だった。
相手を待たせる。
相手に余計な呼吸をさせる。
その呼吸の乱れで、心を読む。
玉は分かっていた。
(ここで焦れば負ける)
だから、黙って待った。
沈黙が伸びる。
やがて帰蝶が筆を置き、ゆっくりと玉を見た。
「……何だ」
その声は短い。
玉は頭を下げた。
「奥方様。恐れながら、お願いがございます」
帰蝶の目が細くなる。
「願い?」
玉は言葉を選びながら続けた。
「先日の夕餉、殿があの鳥を気に入られました。
宴でお出しするならば、より良きものを整えたく存じます」
帰蝶は扇を開き、口元を隠した。
その仕草が、笑いを隠しているようにも見える。
(……この子)
(殿に褒められたことで、気が大きくなったか?)
帰蝶はそう思ったが、すぐに否定した。
玉の目は浮ついていない。
浮つく者の目ではない。
むしろ、腹を括った者の目だ。
帰蝶は言った。
「何をする気だ」
玉は一瞬迷った。
言いすぎれば疑われる。
だが言わなければ許可は出ない。
玉は、半分だけ本音を出した。
「家臣の方々が驚くような、少し変わった料理を用意したく存じます。
殿が笑われれば、宴の空気も柔らかくなります」
帰蝶の眉がわずかに動いた。
(殿が笑えば、空気が柔らかくなる)
それは真理だった。
信長が機嫌を良くすれば、家臣は安心する。
安心すれば、舌が緩む。
舌が緩めば、噂が落ちる。
帰蝶は心の中で、すでに玉の意図を読んでいた。
(……この子は)
(料理で遊ぶ気ではない)
(料理で、場を操る気だ)
帰蝶は静かに言った。
「買い出しか」
玉は頭を下げた。
「はい。
油、酢、豆、香草、乾物、そして……南蛮渡りの品があれば」
帰蝶の扇が止まる。
南蛮。
その言葉は、帰蝶にとって甘い毒のような響きだった。
未知。
異国。
殿が好むもの。
帰蝶は玉を見た。
「お前は、何を作る」
玉は口を開きかけて、飲み込んだ。
(言ってはいけない)
(まだ、形になっていない)
玉の中では献立が次から次へと浮かんでいた。
揚げた肉に、刻んだ漬物を混ぜた白いソースを添える。
鳥を薄く叩き、衣をまとわせて揚げる。
冷たい甘味を出し、舌を凍らせる。
氷。
玉はそこで思い切って口にした。
「奥方様。氷室の氷を、少しだけお借りしたく存じます」
帰蝶の目が、鋭く光った。
氷室。
それはただの贅沢ではない。
権力の象徴だ。
夏に氷を使える者は、天下に近い者だけ。
帰蝶は扇を閉じ、玉をじっと見た。
「氷で何をする」
玉は答える。
「冷やして、驚かせます」
それだけ。
理屈を語れば疑われる。
だから短く。
帰蝶は沈黙した。
その沈黙が長いほど、玉の心臓はうるさくなる。
(だめか)
(氷室は――さすがに無理か)
だが帰蝶は、ふっと息を吐いた。
「……よい」
玉の胸が跳ねた。
帰蝶は続ける。
「氷は少量だ。
無駄にすれば、お前の首で償え」
玉は深く頭を下げた。
「はい。肝に銘じます」
帰蝶の心の内で、笑いが生まれる。
(首で償え、などと)
(私は脅しているのではない)
(試しているのだ)
帰蝶は玉に興味が尽きなかった。
玉が何を作るか。
それが殿の機嫌を動かすか。
家臣団の空気を変えるか。
その結果を見たい。
帰蝶は言った。
「買い出しには、侍女を付ける。
余計なことは喋るな」
玉は頷いた。
「承知いたしました」
帰蝶は最後に、淡々と告げた。
「宴は遊びではない。
殿の前で恥をかけば、明智の名が傷つく」
その言葉は、玉の胸に突き刺さった。
明智。
父上。
帰蝶は、わざとそこを刺した。
玉の動きが、明智の家をも左右することを思い出させるために。
玉は頭を下げたまま答えた。
「……承知しております」
その声は震えていない。
帰蝶はそれを聞いて、内心で満足した。
(よい)
(この子は折れぬ)
翌日。
玉は城を出た。
岐阜の町は活気がある。
商人の声が飛び交い、荷が行き交い、人が流れる。
だが玉は、町の賑わいを楽しむ余裕などない。
町は、危険だ。
城よりも危険だ。
誰がどこで見ているか分からない。
それでも玉は、目を輝かせた。
(買い出し)
(この世界で、材料を選べる)
それは戦場に武器を拾いに行くようなものだった。
油。
菜種油がある。
米酢。
豆。
干し柿。
香草。
漬物。
卵。
(卵……卵があれば、出来る)
玉は胸の中で笑った。
(タルタル……いや)
(白い酢卵の和え物、と言えばいい)
名などどうでもいい。
味が全てだ。
さらに玉の頭の中では、献立が膨らむ。
(揚げ鳥に白いソースを添える)
(あの信長が、舌を止める)
(家臣たちは顔を見合わせる)
(秀吉は必ず聞いてくる)
「どうやって作った」
「何を入れた」
「なぜこうなる」
玉はそれを想像して、背筋がぞくりとした。
恐怖ではない。
高揚だ。
(私は……)
(宴で、男たちの顔色を変えられる)
料理で。
刃も槍も使わずに。
それが玉にとって、何よりの武器だった。
帰蝶が許した氷室。
そのことも、玉の胸を熱くした。
氷が使える。
氷で冷やせる。
冷やして驚かせる。
(この時代で、冷たい甘味は)
(魔法に見える)
玉は干し柿を手に取り、想像した。
冷やした甘酒。
冷やした果実。
氷の上に並べる刺身。
信長の目が光る。
「ほう……」
その声が聞こえる気がした。
玉は小さく息を吐く。
(帰蝶様も、きっと笑う)
帰蝶は信長が驚く顔を見たいと言った。
玉も同じだ。
信長が驚けば、宴の空気は変わる。
空気が変われば、会話が変わる。
会話が変われば、噂が落ちる。
噂が落ちれば――未来が変わる。
玉は歩きながら、指先を握りしめた。
(正念場)
(宴は、ただの食事ではない)
(戦だ)
そして玉は、自分でも気づかぬうちに微笑んでいた。
緊張の中に、楽しみが混じっている。
怖い。
だが、怖いだけではない。
(私は、未来を変える)
(料理で)
(舌で)
(心で)
材料を抱えた玉の小さな背は、町の人波に紛れている。
だがその背には、すでに戦国の中心を動かす覚悟が乗っていた。
宴の日は近い。
信長が優越の笑みを浮かべるのか。
それとも、疑いの目を向けるのか。
帰蝶が愉悦に震えるのか。
それとも、蝮の目で玉を切り捨てるのか。
玉は、息を吸い込んだ。
油の匂いが、袋の中から漂う。
それは、戦の匂いだった。
そして玉は思う。
(家臣団を驚かせる)
(殿を驚かせる)
(帰蝶様の心を掴む)
(そして――父上を守る道を掴む)
岐阜の空の下。
小さな姫の献立が、天下を揺らす準備を始めていた。




