第二十八話「天下人の舌」
岐阜城の空気が変わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
門の方角から太鼓が鳴り、馬のいななきが混じる。
それだけで城内の者は動きを止め、次いで慌ただしく走り出した。
「殿がお戻りだ!」
その声は、城の隅々まで風のように広がった。
小姓たちは廊下を駆け、侍女は衣の裾を整え、台所では鍋を抱えた女たちが顔色を失う。
誰もが同じ表情をしていた。
恐れ。
それは信長という男が、城に戻るだけで生まれる空気だった。
帰蝶は奥の間で扇を膝に置き、静かにその騒ぎを聞いていた。
(戻ったか)
そして同時に、城の「震え方」を読む。
信長が機嫌を損ねて戻った時の城は、もっと冷たい。
音が消える。
声が消える。
今日の城は騒がしい。
だが怯えが混じっている。
(……何かあった)
(けれど、荒れてはいない)
帰蝶はその違いが分かるようになっていた。
夫の機嫌は、誰よりも先に空気に表れる。
それを読むのが、妻という立場の仕事だった。
帰蝶は扇で口元を隠し、静かに息を吐く。
(今宵は良い)
今宵は信長に、玉の料理を食わせる。
それを考えただけで、胸の奥に久しく忘れていた熱が灯った。
あの信長が――驚く。
その顔を見たい。
そう思ってしまう自分に、帰蝶は内心で笑った。
(私は、何を期待している)
(殿の驚く顔など、見て何になる)
だが、何になるかなどどうでもよかった。
ただ、見たい。
女の好奇心が疼いていた。
帰蝶は襖の端へ視線を移した。
玉が控えている。
静かに。
影のように。
あの子にはすでに告げてある。
「今宵、殿と夕餉を共にする」
それを聞いた瞬間、玉の瞳が揺れた。
あれは恐怖だ。
帰蝶はそれを見て、少しだけ満足した。
(怖いのだな)
(ならばなお良い)
怖いのに逃げない者は、面白い。
夕刻。
信長は汗を流し、衣を改め、広間へ現れた。
まるで戦帰りの疲れなどないように。
肩は張り、歩みは速く、視線は鋭い。
だが今日は――不機嫌ではない。
帰蝶はそこを見逃さなかった。
(勝った)
(あるいは、勝ち筋を掴んだ)
信長が満足している時は、怒りが薄い。
怒りが薄い時こそ、余計に恐ろしい。
信長は座ると、扇を乱暴に投げた。
「帰蝶」
「お戻りにございます」
帰蝶は静かに頭を下げた。
信長は鼻で笑うように言った。
「城が静かだな。俺が戻ったのに」
帰蝶は淡々と返す。
「皆、殿の顔色を伺っております」
信長は小さく舌打ちした。
「くだらぬ」
だが、その言葉の裏に、僅かな満足が混じっている。
(殿は恐れられることを好む)
帰蝶は心の内でそう思った。
恐れられれば、支配が確かなものになる。
それが信長だ。
帰蝶は扇を閉じ、静かに告げた。
「今宵の夕餉、少し趣向を変えております」
信長は眉を上げる。
「趣向?」
帰蝶はわざと平然とした声で答える。
「玉が拵えます」
信長の視線が、玉へ向いた。
その瞬間、広間の空気が一段重くなる。
玉は膝をつき、深く頭を下げた。
信長の目は鋭い。
その視線は、刀と同じだ。
だが――怒りではない。
興味の目。
獲物を見つけた獣の目だ。
信長は短く言った。
「ほう」
それだけで、玉の背筋が凍る。
玉は畳の端で控えながら、信長を見ていた。
(……この人が、信長)
前世で何度も目にした名。
戦国の中心。
炎のように時代を焼いた男。
今、その男が、目の前で呼吸している。
玉の喉が乾いた。
(怖い)
(帰蝶様より、怖い)
帰蝶は蛇だ。
信長は火だ。
蛇は噛む。
火は燃やす。
燃やして終わりにする。
その潔さが、恐ろしい。
信長は帰蝶と短い言葉を交わしているが、玉の耳には入らなかった。
玉はただ観察する。
姿勢。
目線。
呼吸。
すべてが速い。
速いのに乱れがない。
(この男は、疲れを見せない)
(見せた瞬間、周囲が食らいつくのを知っている)
玉は胸の中で思う。
(父上は……この男のそばで削られていく)
(あの男は、人を休ませない)
(信長に仕える者は、燃える)
玉は指先の汗を袖で拭った。
(私は、今宵――)
(この火に料理を出す)
(間違えれば終わる)
それでも、逃げられない。
逃げれば、未来は変えられない。
「夕餉を」
帰蝶の声で、玉は現実に引き戻された。
盆が運ばれる。
玉は先頭で料理を運び、静かに畳を進んだ。
飯。
汁。
漬物。
そして――鳥。
唐揚げ。
揚げた鳥肉が皿に盛られ、香りが立つように配置されている。
油の香。
鶏の香。
塩の香。
その匂いが広間に広がった瞬間――
信長の鼻が動いた。
帰蝶の胸が跳ねる。
(気づいた)
信長は皿を見た。
「鳥か」
帰蝶は静かに頷いた。
「はい。玉が拵えました」
信長は玉を見た。
「お前がか」
玉は深く頭を下げる。
「はい……」
信長は箸を取った。
唐揚げを一つ摘まむ。
衣は薄い。
油がしつこくない。
信長は無造作に口に入れた。
次の瞬間――
ぱり、と音が鳴った。
衣が割れる音。
信長の目が、わずかに見開かれた。
帰蝶は心の内で笑った。
(……来た)
信長の心の声が、はっきりと形を持つ。
(なんだ、これは)
(揚げた鳥はある)
(だが、これは違う)
(軽い)
(香りが立つ)
(噛むと肉汁が出る)
(塩が、狙ったように刺さる)
信長は二つ目を食べた。
三つ目を食べた。
帰蝶は扇で口元を隠し、信長の顔を盗み見た。
信長の口元が、少しだけ緩んでいる。
戦で勝った時の笑いではない。
「食で驚いた顔」だ。
帰蝶の胸の奥が、久方ぶりに躍った。
(あの殿が……)
(舌で驚いている)
信長は箸を止めずに言った。
「帰蝶」
「はい」
「これは何だ」
帰蝶は淡々と答える。
「唐揚げ、と申すそうにございます」
信長は眉を寄せた。
「唐……?」
その名の意味を考えるより先に、もう一つ口に入れる。
信長は小さく笑った。
「面白い」
その一言で、帰蝶の心が跳ねる。
面白い。
信長が言う「面白い」は、気に入った時の言葉だ。
信長は玉を見た。
「おい、娘」
玉は背筋を伸ばす。
「は、はい……!」
声が少し上ずった。
その声に、帰蝶は内心で安堵した。
(よい)
(子どもらしく震えろ)
(大人のように落ち着けば、殿は疑う)
信長は言った。
「誰に教わった」
玉は準備していた言葉を口にする。
「明智にいた頃、旅の者が……」
信長は口元を歪めた。
「旅の者は便利だな」
玉の心臓が跳ねる。
(見抜かれた……?)
だが信長は深追いしない。
信長は興味が薄れたように言った。
「まあよい。旨ければよい」
その言葉は恐ろしく軽い。
旨ければ許す。
まずければ切る。
信長という男の理屈は、いつもそれだ。
帰蝶は信長の横顔を見て思った。
(殿は火だ)
(全てを燃やし、残ったものだけを拾う)
信長は唐揚げを食べ終え、汁を飲み、飯をかき込んだ。
食い方は荒い。
だが荒いのに、妙に品がある。
強者の食い方だ。
信長は箸を置き、帰蝶を見た。
「帰蝶」
「はい」
「これを宴で出せ」
帰蝶の胸が跳ねた。
(来た)
(殿が自分から言った)
帰蝶は静かに答える。
「承知いたしました」
信長は笑う。
「柴田の顔が見たい」
帰蝶は扇で口元を隠したまま、心の中で微笑んだ。
(殿も同じことを考えた)
(家臣が驚く顔を見たいのだ)
信長の心の声がさらに膨らむ。
(宴でこれを出せば、あいつらの舌は緩む)
(舌が緩めば、酒が進む)
(酒が進めば、本音が落ちる)
(帰蝶も、そういうことを考えているだろう)
信長は帰蝶を見て、目を細めた。
(帰蝶は女だが、女の皮を被った狐だ)
(狐は狐で役に立つ)
信長は玉をちらりと見る。
(小さな娘だ)
(だが目が死んでいない)
(あの目は、生き残る目だ)
信長は短く言った。
「名は」
玉は答える。
「玉にございます」
信長は鼻で笑った。
「覚えておく」
その言葉が、玉の背中を冷たくした。
覚えておく。
それは褒美ではない。
「監視する」という意味でもある。
信長は立ち上がり、帰蝶に言った。
「明日も作らせよ」
帰蝶は頭を下げる。
「はい」
信長は去っていった。
その背中は大きい。
背中だけで人を支配する男。
帰蝶はその背を見送りながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(殿が笑った)
(食で笑った)
それだけで、女の心は動く。
帰蝶は扇を閉じ、玉を見た。
玉はまだ膝をつき、息を殺している。
帰蝶は思う。
(この娘は、私の宝だ)
(殿が気に入った)
(ならば、なおさら手放せぬ)
帰蝶は静かに微笑んだ。
それは蝮の微笑ではない。
ほんの一瞬だけ、妻の微笑だった。
そして帰蝶の胸の内で、次の景色が鮮明になる。
宴。
家臣団が集まる座。
柴田も、羽柴も、丹羽も。
酒と疑いが渦巻く場所。
そこへ玉の料理を出す。
男たちが驚く。
箸が止まり、目が動く。
「これは何だ」と言い合う。
胃袋を掴めば、舌が緩む。
舌が緩めば、噂が落ちる。
噂が落ちれば、政治が動く。
帰蝶は静かに思った。
(家臣の胃袋を掴むのも、面白い)
(天下は刀で取るものだが)
(刀を動かすのは、腹と舌だ)
帰蝶は玉に告げた。
「玉。宴の支度も考えよ」
玉は顔を上げた。
「……宴、でございますか」
帰蝶は頷く。
「殿が望まれた。
お前の料理で、家臣を驚かせよ」
玉の胸が冷える。
宴。
そこは情報が飛び交う場所だ。
父の名も出る。
明智の名も出る。
玉がそこにいることは危険だ。
だが同時に、玉の胸は熱くなる。
(宴は――耳が拾える)
(噂が落ちる)
(父上を守る道が、そこにあるかもしれない)
玉は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
帰蝶は満足げに目を細めた。
(良い)
(お前は逃げぬ)
(その目が、ますます気に入った)
灯が揺れる。
岐阜城の夜。
天下の中心で、玉という娘の運命が、確かに動き始めていた。
玉は袖の中で拳を握りしめながら、心の中で呟いた。
(信長の舌を掴んだ)
(帰蝶の心も、少し動いた)
(次は――)
(この城の耳を掴む)
静かに。
確実に。
火に焼かれぬ距離で。
玉はその覚悟を、胸の奥で固めていた。




