表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/223

第二十八話「天下人の舌」

岐阜城の空気が変わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。

門の方角から太鼓が鳴り、馬のいななきが混じる。

それだけで城内の者は動きを止め、次いで慌ただしく走り出した。


「殿がお戻りだ!」

その声は、城の隅々まで風のように広がった。


小姓たちは廊下を駆け、侍女は衣の裾を整え、台所では鍋を抱えた女たちが顔色を失う。


誰もが同じ表情をしていた。

恐れ。

それは信長という男が、城に戻るだけで生まれる空気だった。


帰蝶は奥の間で扇を膝に置き、静かにその騒ぎを聞いていた。

(戻ったか)

そして同時に、城の「震え方」を読む。

信長が機嫌を損ねて戻った時の城は、もっと冷たい。


音が消える。

声が消える。

今日の城は騒がしい。

だが怯えが混じっている。

(……何かあった)

(けれど、荒れてはいない)

帰蝶はその違いが分かるようになっていた。


夫の機嫌は、誰よりも先に空気に表れる。

それを読むのが、妻という立場の仕事だった。

帰蝶は扇で口元を隠し、静かに息を吐く。

(今宵は良い)

今宵は信長に、玉の料理を食わせる。


それを考えただけで、胸の奥に久しく忘れていた熱が灯った。

あの信長が――驚く。

その顔を見たい。

そう思ってしまう自分に、帰蝶は内心で笑った。

(私は、何を期待している)

(殿の驚く顔など、見て何になる)

だが、何になるかなどどうでもよかった。

ただ、見たい。

女の好奇心が疼いていた。


帰蝶は襖の端へ視線を移した。

玉が控えている。

静かに。

影のように。

あの子にはすでに告げてある。

「今宵、殿と夕餉を共にする」

それを聞いた瞬間、玉の瞳が揺れた。

あれは恐怖だ。


帰蝶はそれを見て、少しだけ満足した。

(怖いのだな)

(ならばなお良い)

怖いのに逃げない者は、面白い。


夕刻。

信長は汗を流し、衣を改め、広間へ現れた。

まるで戦帰りの疲れなどないように。

肩は張り、歩みは速く、視線は鋭い。

だが今日は――不機嫌ではない。

帰蝶はそこを見逃さなかった。

(勝った)

(あるいは、勝ち筋を掴んだ)


信長が満足している時は、怒りが薄い。

怒りが薄い時こそ、余計に恐ろしい。

信長は座ると、扇を乱暴に投げた。

「帰蝶」

「お戻りにございます」

帰蝶は静かに頭を下げた。

信長は鼻で笑うように言った。

「城が静かだな。俺が戻ったのに」


帰蝶は淡々と返す。

「皆、殿の顔色を伺っております」

信長は小さく舌打ちした。

「くだらぬ」

だが、その言葉の裏に、僅かな満足が混じっている。

(殿は恐れられることを好む)

帰蝶は心の内でそう思った。

恐れられれば、支配が確かなものになる。

それが信長だ。


帰蝶は扇を閉じ、静かに告げた。

「今宵の夕餉、少し趣向を変えております」

信長は眉を上げる。

「趣向?」

帰蝶はわざと平然とした声で答える。

「玉が拵えます」

信長の視線が、玉へ向いた。

その瞬間、広間の空気が一段重くなる。

玉は膝をつき、深く頭を下げた。


信長の目は鋭い。

その視線は、刀と同じだ。

だが――怒りではない。

興味の目。

獲物を見つけた獣の目だ。

信長は短く言った。

「ほう」

それだけで、玉の背筋が凍る。

玉は畳の端で控えながら、信長を見ていた。

(……この人が、信長)

前世で何度も目にした名。


戦国の中心。

炎のように時代を焼いた男。

今、その男が、目の前で呼吸している。

玉の喉が乾いた。

(怖い)

(帰蝶様より、怖い)

帰蝶は蛇だ。

信長は火だ。

蛇は噛む。

火は燃やす。

燃やして終わりにする。

その潔さが、恐ろしい。


信長は帰蝶と短い言葉を交わしているが、玉の耳には入らなかった。

玉はただ観察する。

姿勢。

目線。

呼吸。

すべてが速い。

速いのに乱れがない。

(この男は、疲れを見せない)

(見せた瞬間、周囲が食らいつくのを知っている)


玉は胸の中で思う。

(父上は……この男のそばで削られていく)

(あの男は、人を休ませない)

(信長に仕える者は、燃える)

玉は指先の汗を袖で拭った。

(私は、今宵――)

(この火に料理を出す)

(間違えれば終わる)

それでも、逃げられない。


逃げれば、未来は変えられない。

「夕餉を」


帰蝶の声で、玉は現実に引き戻された。

盆が運ばれる。

玉は先頭で料理を運び、静かに畳を進んだ。

飯。

汁。

漬物。

そして――鳥。

唐揚げ。

揚げた鳥肉が皿に盛られ、香りが立つように配置されている。


油の香。

鶏の香。

塩の香。

その匂いが広間に広がった瞬間――

信長の鼻が動いた。


帰蝶の胸が跳ねる。

(気づいた)

信長は皿を見た。

「鳥か」

帰蝶は静かに頷いた。

「はい。玉が拵えました」

信長は玉を見た。

「お前がか」

玉は深く頭を下げる。

「はい……」

信長は箸を取った。


唐揚げを一つ摘まむ。

衣は薄い。

油がしつこくない。

信長は無造作に口に入れた。

次の瞬間――

ぱり、と音が鳴った。

衣が割れる音。

信長の目が、わずかに見開かれた。


帰蝶は心の内で笑った。

(……来た)

信長の心の声が、はっきりと形を持つ。

(なんだ、これは)

(揚げた鳥はある)

(だが、これは違う)

(軽い)

(香りが立つ)

(噛むと肉汁が出る)

(塩が、狙ったように刺さる)

信長は二つ目を食べた。

三つ目を食べた。


帰蝶は扇で口元を隠し、信長の顔を盗み見た。

信長の口元が、少しだけ緩んでいる。

戦で勝った時の笑いではない。

「食で驚いた顔」だ。


帰蝶の胸の奥が、久方ぶりに躍った。

(あの殿が……)

(舌で驚いている)

信長は箸を止めずに言った。

「帰蝶」

「はい」

「これは何だ」


帰蝶は淡々と答える。

「唐揚げ、と申すそうにございます」

信長は眉を寄せた。

「唐……?」

その名の意味を考えるより先に、もう一つ口に入れる。


信長は小さく笑った。

「面白い」

その一言で、帰蝶の心が跳ねる。

面白い。

信長が言う「面白い」は、気に入った時の言葉だ。


信長は玉を見た。

「おい、娘」

玉は背筋を伸ばす。

「は、はい……!」

声が少し上ずった。

その声に、帰蝶は内心で安堵した。

(よい)

(子どもらしく震えろ)

(大人のように落ち着けば、殿は疑う)


信長は言った。

「誰に教わった」

玉は準備していた言葉を口にする。

「明智にいた頃、旅の者が……」

信長は口元を歪めた。

「旅の者は便利だな」


玉の心臓が跳ねる。

(見抜かれた……?)

だが信長は深追いしない。

信長は興味が薄れたように言った。

「まあよい。旨ければよい」

その言葉は恐ろしく軽い。

旨ければ許す。

まずければ切る。

信長という男の理屈は、いつもそれだ。


帰蝶は信長の横顔を見て思った。

(殿は火だ)

(全てを燃やし、残ったものだけを拾う)

信長は唐揚げを食べ終え、汁を飲み、飯をかき込んだ。

食い方は荒い。

だが荒いのに、妙に品がある。

強者の食い方だ。


信長は箸を置き、帰蝶を見た。

「帰蝶」

「はい」

「これを宴で出せ」

帰蝶の胸が跳ねた。

(来た)

(殿が自分から言った)


帰蝶は静かに答える。

「承知いたしました」


信長は笑う。

「柴田の顔が見たい」

帰蝶は扇で口元を隠したまま、心の中で微笑んだ。

(殿も同じことを考えた)

(家臣が驚く顔を見たいのだ)

信長の心の声がさらに膨らむ。

(宴でこれを出せば、あいつらの舌は緩む)

(舌が緩めば、酒が進む)

(酒が進めば、本音が落ちる)

(帰蝶も、そういうことを考えているだろう)


信長は帰蝶を見て、目を細めた。

(帰蝶は女だが、女の皮を被った狐だ)

(狐は狐で役に立つ)


信長は玉をちらりと見る。

(小さな娘だ)

(だが目が死んでいない)

(あの目は、生き残る目だ)


信長は短く言った。

「名は」

玉は答える。

「玉にございます」


信長は鼻で笑った。

「覚えておく」

その言葉が、玉の背中を冷たくした。

覚えておく。

それは褒美ではない。

「監視する」という意味でもある。


信長は立ち上がり、帰蝶に言った。

「明日も作らせよ」

帰蝶は頭を下げる。

「はい」

信長は去っていった。

その背中は大きい。


背中だけで人を支配する男。

帰蝶はその背を見送りながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。

(殿が笑った)

(食で笑った)

それだけで、女の心は動く。

帰蝶は扇を閉じ、玉を見た。

玉はまだ膝をつき、息を殺している。


帰蝶は思う。

(この娘は、私の宝だ)

(殿が気に入った)

(ならば、なおさら手放せぬ)

帰蝶は静かに微笑んだ。

それは蝮の微笑ではない。

ほんの一瞬だけ、妻の微笑だった。


そして帰蝶の胸の内で、次の景色が鮮明になる。

宴。

家臣団が集まる座。

柴田も、羽柴も、丹羽も。

酒と疑いが渦巻く場所。

そこへ玉の料理を出す。

男たちが驚く。


箸が止まり、目が動く。

「これは何だ」と言い合う。

胃袋を掴めば、舌が緩む。

舌が緩めば、噂が落ちる。

噂が落ちれば、政治が動く。


帰蝶は静かに思った。

(家臣の胃袋を掴むのも、面白い)

(天下は刀で取るものだが)

(刀を動かすのは、腹と舌だ)


帰蝶は玉に告げた。

「玉。宴の支度も考えよ」

玉は顔を上げた。

「……宴、でございますか」


帰蝶は頷く。

「殿が望まれた。

お前の料理で、家臣を驚かせよ」

玉の胸が冷える。


宴。

そこは情報が飛び交う場所だ。

父の名も出る。

明智の名も出る。

玉がそこにいることは危険だ。

だが同時に、玉の胸は熱くなる。

(宴は――耳が拾える)

(噂が落ちる)

(父上を守る道が、そこにあるかもしれない)


玉は深く頭を下げた。

「承知いたしました」

帰蝶は満足げに目を細めた。

(良い)

(お前は逃げぬ)

(その目が、ますます気に入った)


灯が揺れる。

岐阜城の夜。

天下の中心で、玉という娘の運命が、確かに動き始めていた。


玉は袖の中で拳を握りしめながら、心の中で呟いた。

(信長の舌を掴んだ)

(帰蝶の心も、少し動いた)

(次は――)

(この城の耳を掴む)


静かに。

確実に。

火に焼かれぬ距離で。

玉はその覚悟を、胸の奥で固めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ