第三十一話「醤(ひしお)の夢」
宴が終わって数日。
岐阜城の空気は、少しだけ柔らかくなっていた。
もちろん、信長の城で「安心」など存在しない。
だが、あの夜の笑いは確かに残っていた。
廊下ですれ違う小姓が、玉に頭を下げる。
侍女たちが、玉を見て囁き合う。
「奥方様のところの、あの子だ」
「殿が召し上がった料理を作った子だ」
玉はそれを聞きながら、表情を崩さず歩いた。
(浮かれるな)
(気を緩めた瞬間、足を掬われる)
だが胸の奥では、確かな手応えがあった。
織田家の中で、玉という存在が
ほんのわずかだが「意味」を持ち始めている。
(このまま気に入られれば)
(細川に嫁ぐことは、避けられるかもしれない)
その考えが浮かぶだけで、心が軽くなる。
未来が一本ではないことを、玉はようやく実感し始めていた。
そして、玉は決意する。
(少しずつでいい)
(出来ることを、積み上げる)
(焦れば死ぬ)
(けれど止まれば、もっと死ぬ)
玉は歩きながら、父――光秀の顔を思い浮かべた。
宴の席に父はいなかった。
だが、父が背負うものが軽くなったわけではない。
明智家の扱いが改善しているかと問われれば、答えはまだ「否」だ。
信長の目に、光秀はまだ道具に過ぎない。
京の面倒事を押し付けられ、
寺社と朝廷の間に立たされ、
汚れ役を背負わされる。
玉はそれを知っている。
(でも、時間はある)
(本能寺まで、まだ遠い)
(ゆっくりでも、父上と話をしながら)
(父上の心を守る)
玉は胸の奥でそう誓った。
料理で場を動かせるのなら、
言葉で父を守ることも出来るはずだ。
出来ることは、必ずある。
玉は、そう信じたかった。
厨に入ると、女たちが一斉に動きを止めた。
あの日以来、玉は厨の中で「特別」になってしまった。
誰も露骨に逆らわない。
誰も露骨に媚びない。
ただ、距離を取る。
それは敬意ではなく、恐れだ。
玉はそれが分かっていた。
(立場が上がったのではない)
(ただ、目立っただけだ)
目立つ者は危ない。
だからこそ、玉は慎重に息を吸い、慎重に笑った。
「今日も、仕込みをいたします」
厨の者たちは「はい」と頭を下げた。
玉は鍋を覗き込み、味噌の香りを嗅ぐ。
味噌はある。
ならば――。
玉の口元が、ほんの少し緩んだ。
(醤油が欲しい)
前世では当たり前だった味。
だがこの時代では、まだ一般的な「醤油」として確立していない。
少なくとも、玉が望む味ではない。
(味噌があるなら)
(醤も作れる)
(大豆と塩と麹)
(そして時間)
玉は頭の中で手順を組み立てる。
味噌を搾れば「たまり」になる。
そこから発展させればいい。
煮物が変わる。
焼き物が変わる。
漬けが変わる。
料理の幅が増える。
玉は内心でニンマリとした。
(この時代の人間は)
(甘い、塩辛い、酸っぱい、苦いの世界に生きている)
(そこへ――旨味を落とす)
(旨味は、舌を支配する)
(舌を支配すれば、心が動く)
玉は小さく息を吐いた。
(料理は、刃だ)
刃なら、磨けばもっと光る。
玉は帰蝶の部屋へ向かった。
廊下を歩く足取りは静かだが、胸は高鳴っていた。
帰蝶に頼む。
それは危険な行為だ。
帰蝶は、欲を許す女ではない。
必要と判断すれば与えるが、必要でないと判断すれば切り捨てる。
玉は襖の前で膝をつき、声を落とす。
「奥方様。玉にございます」
「入れ」
帰蝶の声はいつも通り冷たい。
玉が中に入ると、帰蝶は文を読んでいた。
その目は鋭く、玉を見ても揺れない。
「何だ」
玉は頭を下げる。
「お願いがございます」
帰蝶の眉がわずかに動いた。
「また料理か」
玉は頷く。
「はい」
帰蝶は扇を閉じ、玉を見た。
「言え」
玉は慎重に言葉を選ぶ。
「味噌がございますゆえ、大豆を仕入れさせていただければと存じます」
帰蝶の目が細くなる。
「大豆?」
玉は頷く。
「はい。
味噌とは別の、汁のような調味を作れます」
帰蝶は沈黙した。
その沈黙が、玉の背筋を冷やす。
(疑われた)
(なぜそんなものを知っている、と)
玉は喉を鳴らしたが、目は逸らさなかった。
逃げれば負ける。
帰蝶は玉を見つめたまま、淡々と問うた。
「それを作れば、何が変わる」
玉は答える。
「煮物が変わります。
焼き物が変わります。
漬物が変わります」
そして、少しだけ言葉を足した。
「殿のお好みにも合うかと存じます」
その瞬間。
帰蝶の目が、ほんの僅かに揺れた。
殿。
信長。
その名は帰蝶の心を動かす鍵だった。
帰蝶は扇を膝に置き、静かに言った。
「……お前は、殿を動かすことしか考えておらぬのか」
玉は即座に否定した。
「違います」
帰蝶の目が鋭くなる。
玉は正直に言った。
「私は、ここで生き残るために考えております」
帰蝶は、その言葉を聞いて小さく笑った。
声は出さない。
ただ、口元がわずかに歪んだ。
(この子は、嘘をつかぬ)
(嘘はつくが、芯は曲げぬ)
帰蝶はそれを好む。
帰蝶は淡々と告げた。
「よい。仕入れを許す」
玉の胸が熱くなる。
だが帰蝶は続けた。
「ただし、余計な者に教えるな。
お前の手で作れ。
厨の者に勝手に触らせるな」
玉は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
帰蝶は扇で机を軽く叩いた。
「失敗すれば、恥をかくのは私だ。
分かっているな」
玉は静かに答えた。
「はい。必ず成功させます」
帰蝶は目を細めた。
(成功させる、と言い切る)
(この娘の怖さは、そこだ)
だが帰蝶は、内心で少しだけ愉快になった。
信長の前で、また驚きが見られるかもしれない。
あの男の、あの顔を。
帰蝶は玉を見ながら思う。
(玉)
(お前は私に、遊びを与える)
(そして、殿にも遊びを与える)
(ならば、しばらく手元に置いてやろう)
玉は帰蝶の部屋を出た。
廊下に出た瞬間、胸の奥が熱くなる。
(許された)
(大豆が手に入る)
玉は思わず、袖の中で小さく拳を握った。
(醤油が出来れば――)
(この世界の料理は変わる)
(そして、私の立場も変わる)
玉は口元を抑えた。
笑ってはいけない。
ここは城だ。
だが心の中では、確かに笑っていた。
(料理の幅が増える)
(それは武器が増えるということ)
玉は歩きながら、次の献立を思い描く。
揚げ物に醤の香りを足す。
煮物に深みを出す。
焼き魚に一滴落とす。
それだけで、人の顔は変わる。
舌が驚く。
舌が驚けば、心が動く。
玉は心の中で呟いた。
(少しずつでいい)
(私は、未来をずらす)
(父上を救うために)
岐阜城の廊下を、小さな足が静かに進む。
その足跡は、確かに歴史の上に残り始めていた。




