第二十六話「昼餉の刃、甘味の罠」
昼餉の支度が始まるころ、台所は朝よりも騒がしくなる。
薪を足す音。
鍋が鳴る音。
水が跳ねる音。
その中で玉だけは、静かだった。
いや静かなのではない。
玉は、少しだけ微笑んでいた。
(昼餉……唐揚げ定食)
(この時代の者は、揚げ物を知っていても、ここまで香ばしくは揚げない)
(帰蝶様の舌は、必ず反応する)
玉は鶏肉を手に取る。
織田家では鳥は珍しくない。
だが「鶏をこう食べる」という発想は、まだ新しい。
玉は包丁を入れた。
肉を小さく切り分け、塩を振る。
そこに少しだけ酒。
そして味噌をほんのわずかに溶かす。
(下味が命)
(油の中で香りが立つ)
衣は米粉を混ぜ、軽く仕上げる。
火加減を見て、油の温度を確かめる。
油が静かに揺れた。
玉は肉を落とした。
じゅわ、と音が鳴る。
湯気が立ち、香りが立つ。
その香りを吸った瞬間、玉の胸がふっと軽くなる。
(……ああ)
(私、料理をしている時だけは怖さを忘れられる)
前世の台所。
揚げ物の匂い。
家族の声。
その記憶が一瞬、玉の頬を緩めた。
だが次の瞬間、現実が戻る。
岐阜城。
帰蝶。
織田の奥方。
油の匂いは、戦の匂いに変わる。
玉は揚げ上がった鶏を引き上げ、油を切り、塩を振った。
香ばしい。
音がするほど、衣が立っている。
(これなら勝てる)
玉は小さく息を吐いた。
そしてもう一つ。
甘味。
玉は台所の隅に置かれた豆を見つけた。
小豆だ。
(……ある)
(この時代にも、ぜんざいはある)
ただし、餅がない。
玉はそこで一瞬悩んだ。
餅がなければ、白玉。
白玉なら作れる。
粉と水。
それだけで出来る。
玉は粉をこね、丸め、湯に落とす。
ぷかり、と浮いた白玉を見て、玉は小さく笑った。
(この白玉は……帰蝶様がどう感じるだろう)
(柔らかすぎると思うか)
(珍しいと感じるか)
胸がどきどきする。
だがそのどきどきの中に、少しだけ余裕があった。
恐怖だけではない。
(反応を見るのが……少し楽しみになっている)
その自分に気づき、玉は自分で驚いた。
岐阜城で笑う余裕が生まれるなど、思っていなかった。
玉は小豆を煮た。
甘味は蜂蜜を少し。
砂糖は使わない。
贅沢をしすぎれば、疑われる。
だが香りは立つ。
白玉を入れ、汁を整える。
(よし)
玉は盆に、昼餉を揃えた。
唐揚げ。
汁。
飯。
漬物。
そして――ぜんざい。
武家の昼餉にしては、少し異質だ。
だが帰蝶が命じた。
「甘いものを出せ」と。
ならば出す。
帰蝶の部屋。
襖が開く。
玉が膝をつき、料理を並べた瞬間
香りが部屋を満たした。
油の香。
鶏の香。
塩と味噌の香。
帰蝶の筆が止まる。
その止まり方が、昨日より早い。
玉の心臓が跳ねる。
(……来た)
帰蝶は皿を見た。
そして、ほんの僅かに眉を上げる。
「鳥か」
玉は頭を下げた。
「はい。鶏にございます」
帰蝶は箸を取った。
唐揚げを一つ摘まむ。
そのまま口に運ぶ。
――衣が鳴った。
ぱり、と。
その音が、帰蝶の耳にも届いた。
帰蝶の目が、わずかに動く。
(……噛み心地が違う)
帰蝶の心が、静かに言った。
(これは、揚げ物の皮ではない)
(これは、香りを閉じ込める衣だ)
噛めば、肉汁が出る。
塩が立つ。
油が重くない。
ただ香ばしさだけが残る。
帰蝶は二つ目を口に運んだ。
三つ目を運んだ。
玉は、その箸の動きを見て、胸の中で小さく息を吐いた。
(……食べている)
(止まらない)
帰蝶は食べ終えると、箸を置き、玉を見た。
「玉」
玉は背筋を伸ばす。
「はい」
帰蝶は淡々と言った。
「これは、何と申す」
玉は答えた。
「唐揚げにございます」
帰蝶の眉がわずかに動いた。
「唐……?」
玉は一瞬迷った。
(唐揚げ、という言葉はまだ早いか)
だが、もう口にしてしまった。
玉はすぐに補った。
「油で揚げ、香を閉じ込めた鳥でございます」
帰蝶は小さく頷く。
(言葉はどうでもいい)
(この味が重要だ)
帰蝶はそう思った。
そして、心の奥で静かに欲が強くなる。
(……玉)
(お前は、私の楽しみになる)
楽しみ。
帰蝶が「楽しみ」を口にすることはない。
だが、心がそう言っていた。
それは危険な兆しでもあった。
帰蝶は楽しみを持つ女ではない。
持てば弱くなる。
だが、弱くなるほどの魅力が、玉の料理にはあった。
玉は次に、甘味を差し出した。
「奥方様。甘味にございます」
帰蝶はそれを見て、眉を上げた。
「……汁粉か」
玉は頷いた。
「はい。小豆を煮ました」
帰蝶は箸で白玉をすくった。
丸い。
餅ではない。
その違いに、帰蝶の目が細くなる。
(餅ではない)
(これは……団子に近いか)
帰蝶は口に入れた。
――柔らかい。
歯がいらぬほど柔らかい。
甘さが舌に広がる。
だがしつこくない。
小豆の香が残る。
帰蝶は黙ってもう一つ食べた。
そして、もう一つ。
玉はその様子を見て、胸の奥で小さく笑った。
(……帰蝶様も、甘いものが好きなのだ)
帰蝶は箸を置き、静かに言った。
「玉」
玉は膝をつき直す。
「はい」
帰蝶は、扇で口元を隠しながら言った。
「お前の料理は……妙だ」
玉の胸が跳ねた。
(妙、は危険な言葉だ)
帰蝶は続けた。
「妙だが、悪くない」
玉は息を吐いた。
危険はまだ去らないが、扉は開いている。
帰蝶は淡々と告げた。
「明日も作れ」
玉は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
部屋を下がりながら、玉は心の中で呟いた。
(帰蝶様は、まだ警戒している)
(けれど――)
(舌は、私を欲しがっている)
それでいい。
警戒心が完全に消えることはない。
帰蝶はそういう女だ。
ならば玉は、警戒されながらも「必要な存在」になるしかない。
必要になれば、そばに置かれる。
そばに置かれれば、情報が取れる。
情報が取れれば、父上を守れる。
そして、細川へ行く未来を避ける道が見える。
玉は少しだけ微笑んだ。
(献立を考えるのは、楽しい)
(……いや)
(楽しいと思ってはいけない)
これは遊びではない。
戦だ。
料理という形をした戦。
だが戦の中に、ほんの少しでも「楽しみ」があれば、心は折れにくい。
玉は廊下を歩きながら、次の献立を考え始めていた。
明日は何を出せば、帰蝶がもっと心を開くか。
明日は何を出せば、帰蝶が「玉を待つ」ようになるか。
玉は確信していた。
帰蝶の心を動かすのは、言葉ではない。
舌だ。
そして舌を動かせる者は、
この城で確かな居場所を得られる。
玉は袖の中で拳を握りしめた。
(私は、ここで生きる)
(私は、ここで未来を変える)
岐阜城の昼餉は、静かに終わった。
だが帰蝶の心の中では、
玉という存在が、確かに根を張り始めていた。




