第二十五話「同じに見えて、違う」
玉の朝は早くなった。
夜が白むより前、城の廊下はまだ冷たい。
裸足で歩けば、足の裏から芯まで凍りそうになる。
だが玉は、音を立てずに起きた。
帰蝶の朝餉の支度があるからである。
布団を畳む。
髪を整える。
袖を通す。
それだけの動きが、以前より早い。
(私は……もう下働きの中でも、少し違う位置にいる)
それを自覚した瞬間、胸が重くなる。
上がるということは、見られるということだ。
見られるということは、疑われるということだ。
玉は台所へ向かった。
火はまだ弱い。
炭の匂いがする。
台所の女たちが目を合わせ、すぐ逸らす。
昨日までと同じなのに、違う。
(目立つのは、怖い)
だが、目立たなければ帰蝶のそばには置かれない。
玉は薪を足し、鍋を温めた。
今日の朝餉は、贅を凝らさない。
派手なものを出せば、帰蝶は警戒する。
驚かせれば、疑われる。
だから――普通に見えるものを作る。
普通に見えて、舌だけが驚くものを。
玉は味噌を溶き、野菜を刻み、魚を整えた。
だが、手順は違う。
(下味)
(下ごしらえで、味を入れる)
それが鍵だ。
玉は魚に塩を振り、少し置いた。
野菜にも薄く味を含ませ、火にかける前に馴染ませる。
時間はかかる。
だが、その時間が味になる。
(料理は、火の前で勝負が決まるわけではない)
(火にかける前に、すでに勝負は終わっている)
玉はそう思いながら、静かに作った。
朝餉は、帰蝶の部屋へ運ばれた。
見た目は普通。
味噌汁。
焼き魚。
煮た菜。
漬物。
誰が見ても、武家の朝餉だ。
玉は膝をつき、皿を並べた。
「奥方様、朝餉にございます」
帰蝶は扇を手に持ったまま、玉を見た。
その目は、相変わらず冷たい。
だが昨日までと違う。
少しだけ待っている目だ。
(……見られている)
玉は背筋を伸ばし、黙って下がった。
帰蝶は箸を取る。
音を立てず、魚をほぐし、口に運ぶ。
その瞬間。
帰蝶の眉が、僅かに動いた。
(……同じだ)
(だが、同じではない)
帰蝶は心の中で思う。
見た目はいつもの朝餉。
だが舌が違和感を拾った。
魚が、芯まで味を持っている。
煮た菜も、噛むと味が奥から出てくる。
味噌汁の香りも、いつもより立っている。
(何だ、この「馴染み方」は)
(料理が、私の舌を知っているようだ)
帰蝶は箸を置かず、淡々と食べ続ける。
だが内心は揺れていた。
(この娘は……昨日だけではない)
(偶然ではない)
(確かに技を持っている)
帰蝶は舌で確かめ、心で計る。
この娘を手元に置く価値はある。
だが価値がある者ほど危険だ。
帰蝶は玉を見た。
玉は視線を伏せ、ただ静かに控えている。
(……静かすぎる)
(子どもらしさが薄い)
(だが、それが逆に恐ろしい)
帰蝶はわざと何気ない声で言った。
「玉」
玉の肩が僅かに動く。
「はい」
帰蝶は箸を止めずに言う。
「いつもと同じようであるが……何かが違う」
玉は一瞬、息を止めた。
(来た)
(試される)
ここで答えを間違えれば、疑いが深まる。
玉はゆっくりと顔を上げ、静かに答えた。
「下ごしらえが違います」
帰蝶の目が細くなる。
「下ごしらえ?」
玉は頷いた。
「事前に塩や味噌で下味を入れてから、火を入れました」
帰蝶は口に運びながら、玉の言葉を聞く。
玉は続ける。
「味が染み込みやすくなります。
火を通してから味を付けるより、芯まで馴染みます」
帰蝶は、ふっと息を吐いた。
その息は笑いではない。
納得の息だった。
(なるほど)
(ただの工夫ではない)
(理屈を知っている)
帰蝶の胸の中で、昨日芽生えた欲が、さらに大きくなる。
(……この娘)
(まだ出せる)
(もっとある)
帰蝶は箸を置き、玉を見た。
玉の顔は幼い。
だが目は、まるで大人のように静かだ。
(この目は何だ)
(明智は、こんな娘を育てたのか)
帰蝶は満足げに言った。
「よい」
その一言で、玉の胸が僅かに軽くなる。
だが次の言葉で、再び凍った。
帰蝶は淡々と告げる。
「昼も頼む」
玉は息を呑んだ。
「……承知いたしました」
帰蝶は扇を閉じ、さらに言う。
「甘いものも出せ」
玉の背筋が僅かに強張る。
(甘いもの……)
(砂糖は貴重だ)
(手に入るのか)
(どう作る)
玉の頭の中に、瞬時にいくつもの案が浮かぶ。
餅。
団子。
蜂蜜。
干し柿。
甘酒。
だが、帰蝶が求めるのはただ甘いだけではない。
帰蝶は「驚き」を欲している。
驚きを与えれば、さらに囲われる。
囲われれば、自由が減る。
だが驚きを与えなければ、飽きられる。
(……難しい)
玉の胸の中で、緊張がきしむ音を立てた。
帰蝶は玉を見て、わずかに口元を上げた。
(悩んでいる)
(悩ませるのもまた、試し)
帰蝶の心の声は冷静だった。
(この娘は便利だ)
(だが便利なものは、手綱を握らねばならぬ)
(甘味は贅沢だ)
(それを出せるなら、玉はただの娘ではない)
帰蝶は確かめたい。
玉がどこまで出せるのか。
どこで破綻するのか。
嘘があるなら、どこで崩れるのか。
帰蝶は最後に、さらりと言った。
「玉」
玉は顔を上げる。
「私を満足させよ」
その言葉は命令ではない。
試験の宣告だった。
玉は深く頭を下げた。
「……はい」
そして玉は心の中で呟いた。
(私は、逃げられない)
(帰蝶様に認められれば、父上に繋がる)
(だが認められすぎれば、私は檻に入る)
(それでも――)
(檻に入らなければ、未来は変えられない)
玉は部屋を下がり、廊下を歩きながら袖の中で手を握りしめた。
冷たい。
指先が冷たい。
だが、頭は熱い。
(甘いもの)
(この時代で出来る甘いもの)
(驚かせて、疑われず)
(自然で、しかし記憶に残るもの)
玉は唇を噛んだ。
(どうする)
(どうすれば、帰蝶様の舌を掴みつつ)
(自分の首を締めずに済む)
岐阜城の廊下は長い。
だがその長さは、玉にとって考える時間だった。
昼まで、あまり時間はない。
それでも玉は歩きながら、次の一手を決めていった。
甘味はただの菓子ではない。
これは――帰蝶の心をさらに開くための刃。
そして同時に、玉自身の首にかかる縄でもあった。




