表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/223

第二十四話「蝮の舌」

油の匂いが、岐阜城の夜に立った。

台所の火は強すぎてもいけない。

弱すぎても衣が沈む。


玉は薪の加減を見ながら、黙って油を温めた。

(落ち着け)

(これは料理だ)

(料理は戦ではない)

そう言い聞かせても、指先は冷たかった。


帰蝶の前に出す。

それは、刃を差し出すのと同じだ。

衣は薄く。

塩は控えめ。

素材の香りを殺さない。


玉は、息を止めて箸を動かした。

油が弾ける音がする。

ぱちぱちと、小さな爆ぜる音。

その音は、未来が変わる音に聞こえた。

揚がったものを、皿に移す。


湯気が立つ。

香が立つ。

玉はその香を嗅いだ瞬間、自分の胸が少しだけ落ち着くのを感じた。

(……出来た)

(これなら、通る)

だが通った瞬間に、別の地獄が始まる。

玉は皿を抱え、帰蝶の部屋へ向かった。


廊下は静かだった。

夜の城は、昼よりも怖い。

音が響きすぎる。


足音が、心臓の鼓動のように響いた。

襖の前。

侍女が声をかける。

「奥方様、玉が参りました」

「入れ」

短い声。

冷たい声。


玉は膝をつき、皿を差し出した。

「奥方様。恐れながら、料理をお持ちいたしました」

帰蝶は文机に向かったまま、こちらを見ない。

「……置け」

玉は静かに皿を置いた。


油の香がふわりと広がる。

その瞬間、帰蝶の手が止まった。

筆が止まる。

扇が止まる。

空気が止まった。


帰蝶の鼻が、わずかに動いた。

(……気づいた)

玉は心の中で呟く。

(香で、気づいた)

帰蝶はゆっくりと振り返り、皿を見る。

その目が、微かに揺れた。

「……揚げ物か」

玉は頭を下げた。

「はい」


帰蝶は言葉を続ける。

「衣が軽い。油が強くない。

匂いが、しつこくない」

それは褒め言葉ではない。

観察の言葉だ。

玉の背中を汗が流れる。

帰蝶は箸を取った。

その手は迷いがない。

迷いがないほど怖い。

帰蝶はひとつ摘み、口に運ぶ。

玉は息を止めた。

――噛んだ。

衣が小さく音を立てた。

その瞬間。

帰蝶の目が、ほんの僅かに大きくなった。


玉はそれを見逃さなかった。

(驚いた……)

(今、驚いた)

帰蝶はもう一つ口に入れた。

咀嚼する。

ゆっくりと。

味を確かめるように。

その沈黙が、玉の心臓を締め付ける。


帰蝶は言った。

「……塩が少ないのに、味が立つ」

玉は小さく頷いた。

「素材の香を残しました」

帰蝶の目が、玉に向いた。

その目は蛇の目だ。

だがいつもと違う。

冷たいだけではない。

興味が混じっている。


帰蝶の心の奥で、何かが蠢いていた。

(……何だ、この味)

帰蝶は心の中で思う。

(南蛮の料理でもない)

(京の料理でもない)

(舌に残るのに、嫌味がない)

(油が軽い。衣が薄い)

(揚げ物はある。だが、これは違う)

帰蝶は箸を置き、玉を見る。


小さな娘。

明智の娘。

まだ幼いはずの女の子が、ここまでのものを出す。

(偶然か?)

(いや、偶然で出せる味ではない)

帰蝶の中で、警戒が生まれる。

警戒と同時に、欲が生まれる。

(……欲しい)

(この娘を、手元に置きたい)

帰蝶は己の中に生まれた感情を認めた。


それは母性ではない。

愛玩でもない。

価値を見つけた時の欲だ。

宝を見つけた時の欲。

(玉)

(お前は、使える)

そして帰蝶はさらに思う。

(使えるだけではない)

(まだ隠している)

この味は「一つの技」ではない。

これは、知識の端だ。

氷山の先端。


つまり、この娘は他にも持っている。

他にも「この世にないもの」を出せる。

(……面白い)

帰蝶は笑いそうになるのを堪えた。

笑えば負ける。

帰蝶は勝つ側でなければならない。


玉は帰蝶の沈黙を見つめながら、指先が冷えていくのを感じた。

(どうだ……)

(嫌われたか)

(疑われたか)

(それとも――)

帰蝶の目が、玉を射抜く。

玉は頭を下げた。

視線を合わせれば、吸い込まれる。

だが下げすぎれば弱い。

玉はぎりぎりの角度で、帰蝶の気配を探った。


帰蝶は言った。

「玉」

玉の肩が跳ねそうになる。

「はい」

帰蝶は淡々と言った。

「もう一つ、作れ」

玉は一瞬、呼吸を忘れた。

(……通った)

だが同時に恐怖が走る。

(もう一つ、作れ、は)

(気に入った、ではない)

(試す、だ)


帰蝶は続ける。

「今度は違うものだ」

玉は答える。

「承知いたしました」

帰蝶は扇を開き、口元を隠した。

「お前、これを誰に教わった」


玉の胸が凍った。

(来た)

(この問いが来るのは分かっていた)

玉は母の文を思い出す。

旅の者。

京から来た旅の者。

玉は言った。

「明智にいた頃、旅の者が屋敷へ立ち寄りました。

その者が、変わった味付けをしており……私は見てしまいました」


帰蝶の目が細くなる。

「見た、だけでここまで出来るか?」

玉は喉が鳴った。

(……鋭い)

帰蝶は鋭い。

だが玉は、子どもとして逃げた。

「……私は、覚えるのが早いのです」

少し恥ずかしそうに言う。


少し自信があるように言う。

子どもらしい虚勢。

帰蝶は一瞬、黙った。

そして言った。

「そうか。ならば、その早さは武器だ」

玉は息を吐いた。


帰蝶は続けた。

「だが武器は、持ち主を殺すこともある」

玉は小さく頷く。

「はい」

帰蝶は箸を取り、残った一つを口に運ぶ。

そして、静かに言った。

「……美味い」

その言葉は、褒め言葉ではない。

宣告だった。


「この娘は価値がある」

そう判断した声だった。

玉の背筋が震える。

(しまった)

(認められたのは、嬉しい)

(でも、認められたら――)

(囲われる)

囲われれば、自由が消える。

だが自由がなければ、父上を守れない。

玉は頭の中で計算する。

帰蝶に囲われるのは危険だ。


だが近づける。

織田の奥の情報が入る。

帰蝶の耳に届く噂が入る。

父上の危機を早く知れる。


玉は、心を固めた。

(この人の手元に置かれるなら)

(私は、その手元で戦う)

帰蝶は玉を見ながら、心の中で思った。

(この娘は、怖い)

(幼いのに、目が揺れぬ)

(怯えているのに、逃げぬ)

(……まるで)

(戦を知っている者の目だ)

帰蝶は扇を閉じた。


そして玉に言う。

「玉。明日から、お前は台所と私の部屋を行き来せよ」

玉は目を見開いた。

「……奥方様?」

帰蝶は淡々と告げる。

「私の食事は、お前が見よ。

毒見も含め、責任を負え」

玉は息を呑んだ。

それは栄誉ではない。

首輪だ。

命を預けられる役目。

失敗すれば終わる。

だが、逃げれば終わる。


玉は深く頭を下げた。

「……承知いたしました」

帰蝶は言った。

「よい返事だ」

その声に、僅かに柔らかさが混じった。

玉は感じた。

(帰蝶様の心が……ほんの少し開いた)

それは信頼ではない。

だが扉の鍵が、ほんの少し緩んだ。

その隙間から、玉は未来を覗ける。


帰蝶は立ち上がり、玉の前に立った。

近い。

香の匂いがする。

帰蝶は玉の顔を覗き込み、静かに言った。

「玉。お前は面白い」

玉の喉が鳴った。


帰蝶は続ける。

「面白いものは、手元に置く」

その言葉は優しさではない。

宣告だ。

蛇が獲物を逃さぬ宣告。

玉は小さく笑った。

笑うしかなかった。

(私は、捕まった)

(でも――)

(捕まらなければ、戦えない)

玉は胸の奥で呟いた。

(この手で、父上を守る)

(この舌で、帰蝶の心を測る)

(この城で、細川へ行かぬ道を作る)

帰蝶は背を向け、襖の方へ歩いた。


去り際に、ぽつりと言った。

「次は、甘いものを作れ」

玉は思わず顔を上げた。

甘いもの。

砂糖は貴重だ。

だが――。

帰蝶はもう、私を試すだけではない。

「欲している」

そう感じた。

玉は深く頭を下げた。

「……かしこまりました」

襖が閉まる。

灯の光が揺れる。


玉は一人、皿を見つめた。

油の香が、まだ残っている。

その香は、戦の匂いではなかった。

けれど確かに、天下へ繋がる匂いだった。

玉は胸の内で静かに呟いた。

(帰蝶様の舌を掴んだ)

(次は、耳を掴む)

(そして最後に――)

(父上を、守る)


岐阜城の夜は深い。

だがその闇の中で、

帰蝶の心の扉は、ほんの少しだけ開き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ