第二十四話「蝮の舌」
油の匂いが、岐阜城の夜に立った。
台所の火は強すぎてもいけない。
弱すぎても衣が沈む。
玉は薪の加減を見ながら、黙って油を温めた。
(落ち着け)
(これは料理だ)
(料理は戦ではない)
そう言い聞かせても、指先は冷たかった。
帰蝶の前に出す。
それは、刃を差し出すのと同じだ。
衣は薄く。
塩は控えめ。
素材の香りを殺さない。
玉は、息を止めて箸を動かした。
油が弾ける音がする。
ぱちぱちと、小さな爆ぜる音。
その音は、未来が変わる音に聞こえた。
揚がったものを、皿に移す。
湯気が立つ。
香が立つ。
玉はその香を嗅いだ瞬間、自分の胸が少しだけ落ち着くのを感じた。
(……出来た)
(これなら、通る)
だが通った瞬間に、別の地獄が始まる。
玉は皿を抱え、帰蝶の部屋へ向かった。
廊下は静かだった。
夜の城は、昼よりも怖い。
音が響きすぎる。
足音が、心臓の鼓動のように響いた。
襖の前。
侍女が声をかける。
「奥方様、玉が参りました」
「入れ」
短い声。
冷たい声。
玉は膝をつき、皿を差し出した。
「奥方様。恐れながら、料理をお持ちいたしました」
帰蝶は文机に向かったまま、こちらを見ない。
「……置け」
玉は静かに皿を置いた。
油の香がふわりと広がる。
その瞬間、帰蝶の手が止まった。
筆が止まる。
扇が止まる。
空気が止まった。
帰蝶の鼻が、わずかに動いた。
(……気づいた)
玉は心の中で呟く。
(香で、気づいた)
帰蝶はゆっくりと振り返り、皿を見る。
その目が、微かに揺れた。
「……揚げ物か」
玉は頭を下げた。
「はい」
帰蝶は言葉を続ける。
「衣が軽い。油が強くない。
匂いが、しつこくない」
それは褒め言葉ではない。
観察の言葉だ。
玉の背中を汗が流れる。
帰蝶は箸を取った。
その手は迷いがない。
迷いがないほど怖い。
帰蝶はひとつ摘み、口に運ぶ。
玉は息を止めた。
――噛んだ。
衣が小さく音を立てた。
その瞬間。
帰蝶の目が、ほんの僅かに大きくなった。
玉はそれを見逃さなかった。
(驚いた……)
(今、驚いた)
帰蝶はもう一つ口に入れた。
咀嚼する。
ゆっくりと。
味を確かめるように。
その沈黙が、玉の心臓を締め付ける。
帰蝶は言った。
「……塩が少ないのに、味が立つ」
玉は小さく頷いた。
「素材の香を残しました」
帰蝶の目が、玉に向いた。
その目は蛇の目だ。
だがいつもと違う。
冷たいだけではない。
興味が混じっている。
帰蝶の心の奥で、何かが蠢いていた。
(……何だ、この味)
帰蝶は心の中で思う。
(南蛮の料理でもない)
(京の料理でもない)
(舌に残るのに、嫌味がない)
(油が軽い。衣が薄い)
(揚げ物はある。だが、これは違う)
帰蝶は箸を置き、玉を見る。
小さな娘。
明智の娘。
まだ幼いはずの女の子が、ここまでのものを出す。
(偶然か?)
(いや、偶然で出せる味ではない)
帰蝶の中で、警戒が生まれる。
警戒と同時に、欲が生まれる。
(……欲しい)
(この娘を、手元に置きたい)
帰蝶は己の中に生まれた感情を認めた。
それは母性ではない。
愛玩でもない。
価値を見つけた時の欲だ。
宝を見つけた時の欲。
(玉)
(お前は、使える)
そして帰蝶はさらに思う。
(使えるだけではない)
(まだ隠している)
この味は「一つの技」ではない。
これは、知識の端だ。
氷山の先端。
つまり、この娘は他にも持っている。
他にも「この世にないもの」を出せる。
(……面白い)
帰蝶は笑いそうになるのを堪えた。
笑えば負ける。
帰蝶は勝つ側でなければならない。
玉は帰蝶の沈黙を見つめながら、指先が冷えていくのを感じた。
(どうだ……)
(嫌われたか)
(疑われたか)
(それとも――)
帰蝶の目が、玉を射抜く。
玉は頭を下げた。
視線を合わせれば、吸い込まれる。
だが下げすぎれば弱い。
玉はぎりぎりの角度で、帰蝶の気配を探った。
帰蝶は言った。
「玉」
玉の肩が跳ねそうになる。
「はい」
帰蝶は淡々と言った。
「もう一つ、作れ」
玉は一瞬、呼吸を忘れた。
(……通った)
だが同時に恐怖が走る。
(もう一つ、作れ、は)
(気に入った、ではない)
(試す、だ)
帰蝶は続ける。
「今度は違うものだ」
玉は答える。
「承知いたしました」
帰蝶は扇を開き、口元を隠した。
「お前、これを誰に教わった」
玉の胸が凍った。
(来た)
(この問いが来るのは分かっていた)
玉は母の文を思い出す。
旅の者。
京から来た旅の者。
玉は言った。
「明智にいた頃、旅の者が屋敷へ立ち寄りました。
その者が、変わった味付けをしており……私は見てしまいました」
帰蝶の目が細くなる。
「見た、だけでここまで出来るか?」
玉は喉が鳴った。
(……鋭い)
帰蝶は鋭い。
だが玉は、子どもとして逃げた。
「……私は、覚えるのが早いのです」
少し恥ずかしそうに言う。
少し自信があるように言う。
子どもらしい虚勢。
帰蝶は一瞬、黙った。
そして言った。
「そうか。ならば、その早さは武器だ」
玉は息を吐いた。
帰蝶は続けた。
「だが武器は、持ち主を殺すこともある」
玉は小さく頷く。
「はい」
帰蝶は箸を取り、残った一つを口に運ぶ。
そして、静かに言った。
「……美味い」
その言葉は、褒め言葉ではない。
宣告だった。
「この娘は価値がある」
そう判断した声だった。
玉の背筋が震える。
(しまった)
(認められたのは、嬉しい)
(でも、認められたら――)
(囲われる)
囲われれば、自由が消える。
だが自由がなければ、父上を守れない。
玉は頭の中で計算する。
帰蝶に囲われるのは危険だ。
だが近づける。
織田の奥の情報が入る。
帰蝶の耳に届く噂が入る。
父上の危機を早く知れる。
玉は、心を固めた。
(この人の手元に置かれるなら)
(私は、その手元で戦う)
帰蝶は玉を見ながら、心の中で思った。
(この娘は、怖い)
(幼いのに、目が揺れぬ)
(怯えているのに、逃げぬ)
(……まるで)
(戦を知っている者の目だ)
帰蝶は扇を閉じた。
そして玉に言う。
「玉。明日から、お前は台所と私の部屋を行き来せよ」
玉は目を見開いた。
「……奥方様?」
帰蝶は淡々と告げる。
「私の食事は、お前が見よ。
毒見も含め、責任を負え」
玉は息を呑んだ。
それは栄誉ではない。
首輪だ。
命を預けられる役目。
失敗すれば終わる。
だが、逃げれば終わる。
玉は深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
帰蝶は言った。
「よい返事だ」
その声に、僅かに柔らかさが混じった。
玉は感じた。
(帰蝶様の心が……ほんの少し開いた)
それは信頼ではない。
だが扉の鍵が、ほんの少し緩んだ。
その隙間から、玉は未来を覗ける。
帰蝶は立ち上がり、玉の前に立った。
近い。
香の匂いがする。
帰蝶は玉の顔を覗き込み、静かに言った。
「玉。お前は面白い」
玉の喉が鳴った。
帰蝶は続ける。
「面白いものは、手元に置く」
その言葉は優しさではない。
宣告だ。
蛇が獲物を逃さぬ宣告。
玉は小さく笑った。
笑うしかなかった。
(私は、捕まった)
(でも――)
(捕まらなければ、戦えない)
玉は胸の奥で呟いた。
(この手で、父上を守る)
(この舌で、帰蝶の心を測る)
(この城で、細川へ行かぬ道を作る)
帰蝶は背を向け、襖の方へ歩いた。
去り際に、ぽつりと言った。
「次は、甘いものを作れ」
玉は思わず顔を上げた。
甘いもの。
砂糖は貴重だ。
だが――。
帰蝶はもう、私を試すだけではない。
「欲している」
そう感じた。
玉は深く頭を下げた。
「……かしこまりました」
襖が閉まる。
灯の光が揺れる。
玉は一人、皿を見つめた。
油の香が、まだ残っている。
その香は、戦の匂いではなかった。
けれど確かに、天下へ繋がる匂いだった。
玉は胸の内で静かに呟いた。
(帰蝶様の舌を掴んだ)
(次は、耳を掴む)
(そして最後に――)
(父上を、守る)
岐阜城の夜は深い。
だがその闇の中で、
帰蝶の心の扉は、ほんの少しだけ開き始めていた。




