第二十三話「油の香と、蛇の目」
岐阜城の朝は冷たい。
井戸水は骨まで冷え、布を絞る指先が赤くなる。
だが、玉は黙って働いた。
拭く。
運ぶ。
整える。
余計なことは言わない。
余計なことは見せない。
そう決めていた。
けれど、その日だけは違った。
昼前、下働きの女が小さな声で言った。
「玉さま……明智より、文が届いております」
玉は、布を握ったまま固まった。
明智。
その二文字が、胸の奥を一気に熱くした。
返事が来た。
母の返事だ。
玉は誰にも見られぬように袖の中に文を隠し、井戸端の陰へ身を寄せた。
指先で封を切る。
紙を開く。
母の筆跡が、そこにあった。
「玉へ
文、確かに受け取りました……」
玉は、最初の一行で息を止めた。
(……母上)
母の文字は、温かい。
墨の匂いがするだけで、家の匂いが蘇る。
玉は読み進める。
そして――。
「玉が無事で済むなら、母は何も惜しみませぬ」
その一文で、玉の胸がきゅっと締まった。
目が熱くなる。
涙が落ちそうになる。
だが玉は、ぐっと堪えた。
(泣くな)
(ここで泣いたら、負けだ)
けれど、涙は勝手に浮かんでくる。
母は、何も知らない。
自分が燃える未来も、幽閉される未来も、知らない。
それでも母は、娘のために嘘を背負うと言った。
(母上……)
(私は、母上まで巻き込んだ)
罪悪感が胸に刺さる。
だが同時に、救われる。
たった一枚の紙が、こんなにも重い。
こんなにも温かい。
玉は文を握りしめた。
(私は、戻れない)
(もう後戻りはできない)
(母上の覚悟を、無駄にしない)
玉は文を丁寧に折り、袖の奥へしまった。
その瞬間、心が決まった。
――料理を出す。
帰蝶の目の前で。
危険だ。
だが、危険を避け続ければ、私は永遠に下働きのまま。
下働きの耳では、父上を守れない。
帰蝶に近づくには、価値が要る。
そして今、私には母の言葉がある。
言い訳の盾がある。
(今なら、踏み込める)
玉は息を吐き、立ち上がった。
その日の夕刻。
帰蝶の部屋へ呼ばれた。
襖が開く。
香の匂いが流れ出す。
玉は膝をつき、頭を下げた。
「奥方様」
帰蝶は扇を閉じたまま、玉を見た。
その目が、いつもより鋭い。
「玉」
玉の背筋が伸びる。
帰蝶は淡々と言った。
「お前、今日、何か良いことでもあったか」
玉は息を止めた。
(……見抜かれている)
心の揺れまで、見られている。
玉はすぐに顔を伏せた。
「恐れながら、そのようなことは」
帰蝶は笑わない。
ただ、静かに言う。
「嘘を申すな。
お前は、何かを手に入れた顔をしている」
玉の喉が乾いた。
(この人は怖い)
(帰蝶様から隠し事はできない)
玉は心を決めた。
半分だけ、出す。
「……実家より文が届きました」
帰蝶の目が僅かに緩む。
「そうか。母か」
玉は頷いた。
「はい」
帰蝶は扇を指で弾き、淡々と言った。
「母の文は、女を弱くする。
お前も弱くなったか」
玉は小さく首を振った。
「弱くなったのではなく……確かめました」
帰蝶の眉が動いた。
「確かめた?」
玉は言葉を慎重に選んだ。
「私は、ここに居てよいのだと」
帰蝶は少しだけ目を細めた。
その視線は、疑いではない。
興味。
蛇が獲物の動きを観察する目だ。
帰蝶はふっと息を吐いた。
「……お前は、妙に腹が据わっている」
玉は何も言わなかった。
言えば墓穴だ。
帰蝶は次に、何気ない声で言った。
「ところで玉」
玉は顔を上げる。
「お前、私の身の回りを世話するのが不服か」
その問いは刃だった。
もし玉が「不服です」と言えば捨てられる。
もし「嬉しいです」と言えば媚びと取られる。
玉は答えを選んだ。
子どもらしく、だが賢く。
「……恐れながら、不服ではございません」
帰蝶は目を細める。
「なら、何だ」
玉は少しだけ眉を下げた。
「私は、まだ下働きです。
奥方様のお側にいることが……畏れ多いのです」
帰蝶の口元が、僅かに上がった。
「畏れ多い、か」
その声に、からかいが混じる。
帰蝶は言った。
「畏れ多いと言いながら、お前は逃げぬな」
玉は黙った。
逃げられるなら逃げたい。
だが逃げれば未来が燃える。
だから逃げない。
帰蝶は玉を見つめたまま、低く言った。
「玉。お前は、何かを隠している」
玉の背筋に冷たい汗が流れた。
(来た)
(踏み込まれる)
帰蝶は続ける。
「隠している者は、隠し方が下手だ」
玉は息を吸った。
ここで誤魔化せば、終わる。
玉は腹を括った。
(料理だ)
(料理で道を開く)
玉は静かに頭を下げた。
「奥方様。お願いがございます」
帰蝶は扇を閉じ、じっと玉を見た。
「申せ」
玉は言った。
「料理を……作らせていただきたく存じます」
帰蝶の目が、ぴくりと動く。
「料理?」
玉は頷く。
「はい」
帰蝶は間を置いた。
そして冷たく問う。
「お前が?」
玉は答えた。
「はい」
帰蝶は言った。
「明智の姫が、下働きの身で料理を申し出る。
面白い。
だが――なぜだ」
玉は胸の中で母の文を思い出した。
(母上、どうか支えて)
玉は静かに言った。
「明智にいた頃、旅の者が屋敷へ立ち寄ったことがございます。
その者が、変わった料理を作っておりました」
帰蝶の目が細くなる。
「旅の者?」
玉は頷く。
「はい。京から来たと申しておりました」
帰蝶は扇を指先で弄びながら言った。
「京から来た旅の者が、明智の屋敷に寄り、
姫に料理を教えたと申すか」
玉は息を止めた。
(疑っている)
当然だ。
だが玉は、言葉を崩さない。
「恐れながら、私が勝手に覗き見て、
どうしても知りたくなり……教えを請いました」
帰蝶は玉の目を見た。
玉は目を逸らさなかった。
逸らせば負ける。
帰蝶はしばらく黙っていた。
沈黙が長い。
玉の心臓が痛いほど鳴る。
やがて帰蝶が言った。
「作れ」
玉の胸が跳ねた。
帰蝶は続ける。
「だが、私が口にするものは、毒見が先だ。
そして、失敗すれば――お前の嘘も、そこまでだ」
玉は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
帰蝶は扇を閉じ、冷たく言った。
「勘違いするな。
許したのではない。試すのだ」
玉は答えた。
「承知しております」
その夜、玉は台所へ向かった。
火を扱う女たちがざわめく。
鍋。
薪。
味噌。
塩。
そこに、油の壺があった。
玉は油を見つめた。
(天ぷら)
この時代に揚げ物はある。
だが「衣で包み、軽く揚げる」という発想は、まだ珍しい。
驚かせすぎず、しかし印象に残る。
帰蝶の舌に残る料理。
そして――帰蝶の目が、私を「道具」として認める料理。
玉は静かに息を吐いた。
(私は、怖い)
(けれど、怖いからこそやる)
(ここで何もせずにいる方が、もっと怖い)
母の文が背中にある。
父上の疲れた声が背中にある。
未来の炎が背中にある。
玉は袖をまくり、油の壺に手を伸ばした。
(これが、私の最初の賭け)
(帰蝶の目を、揺らすための賭け)
油の匂いが立ち上る。
火が揺れる。
その光の中で、玉は小さな手で、未来を揚げ始めた。




