第二十二話「母の文」
夜の明智の屋敷は、静かだった。
虫の声が庭に落ち、風が障子を震わせる。
行灯の灯は揺れ、影が畳の上をゆっくりと滑っていく。
熙子は針を置いた。
手元に届いた一通の文。
薄い紙一枚。
それが、今夜の屋敷の空気を変えていた。
封を切る指先が、わずかに震える。
(落ち着け)
(これは、玉からの便り)
(無事を知らせる便りであるはず)
そう思っても、胸の奥の不安は消えなかった。
母の勘は、言葉より先に痛みを知る。
熙子は文を開き、灯にかざし、静かに読み始めた。
「母上
岐阜城にて、私は無事に務めております……」
その最初の一行で、熙子は息を吐いた。
無事。
それだけで、どれほど救われるか。
(よかった……)
(生きている)
(ちゃんと、息をしている)
それだけで、母の胸は満たされるはずだった。
だが――文を読み進めるほどに、熙子の表情は硬くなっていく。
「もし今後、私が料理を作ることがあれば、
それは“旅の者より教わったもの”として……」
熙子の手が止まった。
紙を握る指に、力が入る。
(嘘を……つけと)
(この子が、私に嘘を頼むのか)
胸が痛んだ。
玉は嘘を嫌う子だった。
幼いころ、侍女が誤魔化すように言った言葉にも、玉は首を傾げた。
「本当は?」と。
真っ直ぐな子。
その真っ直ぐさが、今夜は苦しい。
(玉は、嘘をつかねば生きられぬ場所にいる)
その事実が、母の喉を締め付けた。
岐阜城。
帰蝶。
織田の奥方。
その名だけで、熙子の背筋が冷える。
あの女の目は、蛇だ。
蛇の目に捕まれば、逃げられない。
(玉……)
(お前は何を見て、何を感じて、そこまで考えるようになった)
熙子は文を膝に置き、しばらく目を閉じた。
灯の揺れが、瞼の裏で波のように揺れる。
思い出す。
夫、光秀。
京へ行くたびに、夫の顔から色が抜けていくことを。
帰ってくるたびに、言葉が短くなることを。
家臣たちが、夫の顔色を窺うようになったことを。
屋敷の空気が、いつの間にか重くなっていったことを。
(私は、気づいていた)
(気づいていたのに、何も出来なかった)
母として、妻として、何をした。
ただ祈るだけだった。
ただ待つだけだった。
その間に、玉は
玉は、肌で感じ取ったのだ。
この家の上に、見えぬ影が伸びていることを。
明智を取り巻く世界が、ゆっくりと歪んでいくことを。
九つの子が。
その小さな胸で。
(この子は……)
(私たち大人が守るべき子なのに)
(守ろうとしているのは、玉の方だ)
熙子は唇を噛んだ。
苦しい。
誇らしいのではない。
母として、あまりに苦しい。
子どもが子どもでいられない世を、恨みたくなる。
だが恨んでも、戦国は変わらない。
変わらないなら、母が出来ることは一つ。
玉の道を折らぬこと。
玉の覚悟を、邪魔しないこと。
(玉は考え抜いたのだろう)
(怖い思いをして、震えながら、それでも進む道を選んだのだろう)
(ならば私は――母として)
(その背を押すしかない)
たとえ嘘を背負うことになっても。
たとえ誰かに疑われても。
たとえ自分が何かを失うとしても。
(玉が無事で済むなら)
その一文が、熙子の胸の中で静かに燃えた。
母とは、そういうものだ。
子のためなら、己の恥も罪も抱く。
それが母だ。
熙子は目を開き、机に向かった。
筆を取る。
墨を擦る。
墨の匂いが立ち上がり、部屋の空気が少しだけ落ち着く。
書状を書く匂い。
この匂いは、夫の背中を思い出させる。
夫が何度も文を書き、命を繋いできた匂い。
熙子は静かに筆を走らせた。
「玉へ
文、確かに受け取りました。
無事と知り、母は胸を撫で下ろしました。
岐阜城は、母が想像するよりずっと厳しい場所でしょう。
されど、お前が自ら選びし道ならば、
母は止めませぬ。
お前が申した通り、
旅の者より教わった料理であると、
母もそのように覚えておきます。
誰に問われようとも、
母は同じ言葉を申します。
そのことで母が疑われようとも構いませぬ。
玉が無事で済むなら、
母は何も惜しみませぬ。
ただ一つ。
決して、己の身を軽んじてはなりませぬ。
お前は明智の姫であり、
母の子です。
怖い時は、空を見なさい。
夜の月を見なさい。
それでも心が折れそうなら、
母を思い出しなさい。
母はいつでも、お前の味方です。
熙子」
書き終えた瞬間、熙子の目に熱いものが溜まった。
涙が落ちれば、墨が滲む。
それだけはならぬ。
この文は、玉の盾になる文だ。
滲ませてはならない。
熙子は袖で目元を押さえ、深く息を吐いた。
(泣くな)
(泣いても玉は救えぬ)
(救うのは、言葉だ)
熙子は文を丁寧に折り、封をした。
指先が震える。
それは恐れではない。
母としての覚悟が、身体に現れているだけだった。
翌朝。
熙子は使いを呼び、文を渡した。
「岐阜へ。玉へ確かに届けよ」
使いは深く頭を下げる。
「はっ」
使いが去っていく背を見ながら、熙子は小さく呟いた。
(玉)
(お前は小さすぎる)
(だが、お前は強すぎる)
(強い子ほど、折れる時は突然だ)
熙子は庭を見た。
冬の風が、木の枝を揺らす。
枝は折れそうで、折れない。
折れぬように、しなやかに揺れている。
(玉も、そうであれ)
(しなやかに生きよ)
(固くなるな)
(固くなれば、折れる)
熙子は目を閉じた。
そして遠い岐阜城を思った。
蝮の娘の目の下で、
自分の娘が生きている。
それが恐ろしくて、
それでも母は、微笑んだ。
涙を隠して。
母として、微笑んだ。




