第二十一話「言い訳という盾」
玉は思った。
――帳簿は危ない。
あまりにも危ない。
この時代で「帳簿が付けられる女」は珍しくはない。
だが、下働きの娘が「商家のような計算」をするのは異様だ。
まして帰蝶は、異様を見逃さない。
あの方は、匂いで嘘を嗅ぎ分ける。
私は布団の中で目を閉じ、指を折って考えた。
帳簿は、どこで学んだと言えばいい。
母上に教わった?
――いや、母上がそんなことを教えるはずがない。
寺で?
――女子が帳簿を学ぶ寺など聞いたことがない。
父上の書庫で独学?
――独学であそこまで出来れば、逆に怖い。
言い訳が成立しない。
帳簿は、私の手札としては強すぎる。
強すぎる手札は、武器ではなく首輪になる。
私は息を吐いた。
(帳簿は最後の最後まで伏せる)
それが正しい。
ならば、料理だ。
料理なら、工夫と言い張れる。
たとえ奇妙でも、「台所で覚えた」「偶然ひらめいた」で済む。
味は証拠にならない。
帳簿は証拠になる。
料理は「舌の記憶」でしか残らない。
だから料理なら――。
だが、料理でさえも危ない。
帰蝶の舌は、恐ろしく鋭いはずだ。
「なぜこの味を知っている」
その疑念が生まれれば、私は詰む。
私は考えた。
言い訳が要る。
最も無難なのは、旅の人。
京から来た者。
堺から来た者。
南蛮の影を匂わせる者。
旅の人が教えた。
それなら「偶然」で済む。
だが
帰蝶が、その旅の人を探したら?
問い詰められたら?
私の嘘は一瞬で崩れる。
(帰蝶様は、誤魔化せない)
私は確信していた。
誤魔化すことはできない。
できるのは、「疑う必要がない」と思わせることだけ。
つまり、帰蝶に先回りして筋を通すしかない。
そのためには、私だけの言い訳では足りない。
証人が要る。
味方が要る。
私は布団の中で、小さく唇を噛んだ。
母上だ。
母上なら、私の味方になる。
母上が「旅の者から教わった」と知っていれば、
私が帰蝶に問い詰められた時も、話が揺れない。
母上の言葉が裏付けになる。
母上が知らぬままなら、私の嘘は薄い。
私はゆっくりと起き上がった。
行灯の灯りが揺れている。
筆と紙を取り出す。
母上に文を書く。
それは、ただの報告ではない。
母上に「嘘の骨組み」を渡すための文だ。
私は筆を取った。
墨を含ませ、慎重に書く。
「母上
岐阜城にて、私は無事に務めております。
奥方様は厳しくも、日々学びが多くございます。
母上にひとつお願いがございます。
もし今後、私が料理を作ることがあれば、
それは“旅の者より教わったもの”として、
母上にもそのように覚えておいていただきたく存じます。
先日、台所で荷運びの者が申しておりました。
京より来た旅の者が、変わった味付けを知っていると。
私はそれを聞き、少しだけ教わりました。
もし奥方様に問われた時、
母上のお口からも同じことが申せれば、
私の立場は守られます。
恐れながら、どうかお力をお貸しください。
玉」
書き終えた瞬間、胸が苦しくなった。
母上に嘘を頼む。
それは罪だ。
だが罪を犯さなければ、私は燃える。
私は紙を折り、封をした。
手が少し震えていた。
(私はもう、普通の娘ではいられない)
母上を巻き込む。
父上を守るために。
自分を守るために。
私は文を握りしめた。
この文が届けば、母上は困るだろう。
だが、母上は賢い。
母上はきっと理解する。
理解してしまうからこそ、苦しむ。
その痛みが胸を刺した。
私は目を閉じた。
そして決めた。
(母上から返事が来てから)
(帰蝶様に相談しよう)
先に動けば、私は疑われる。
順序を守る。
段取りを整える。
それがこの城で生き残る術だ。
私は文を侍女に渡し、送り出した。
夜風が障子を揺らす。
岐阜城の闇は深い。
けれど私は知っている。
闇の中でこそ、言い訳という盾が必要だ。
盾を持たぬ者は、刃を避けられない。
私は静かに息を吐いた。
母上の返事が来るまで、私は余計なことはしない。
ただ黙々と働き、
ただ黙々と見て、
ただ黙々と聞く。
そして
母上の言葉を盾にした時、私は初めて帰蝶の前に立つ。
「私はただの娘です」と言いながら、
帰蝶の目を、真正面から受け止めるために。




