二百五十七話 玉と誠仁親王――歴史を知る者
三日後。
玉は、誠仁親王のもとへ向かっていた。
安寧丸は母に預けてきた。
今回の対面が、どのような結末になるのか分からない。
だからこそ、安寧丸をここへ連れてくることだけは避けた。
屋敷の周囲には織田の兵が厳重に配置されている。
信長、信忠、光秀も既に到着していた。
玉は三人の前を通り、誠仁親王の前へ進む。
そして、静かに頭を下げた。
「誠仁親王殿下。明智玉にございます」
「……顔を上げてください」
玉は顔を上げた。
誠仁親王と視線が合う。
互いに、しばらく言葉を発しなかった。
やがて玉が口を開く。
「殿下」
「はい」
「なぜ、このようなことをなされたのでしょうか」
誠仁親王は黙っている。
「父を本能寺で殺そうとした」
「……」
「信忠様も」
「……」
「秀吉を動かし、毛利を利用し、寺社や公家まで巻き込んだ」
玉の声は落ち着いていた。
「そして……私と安寧丸まで排除しようとした」
誠仁親王は目を伏せた。
「理由を教えてください」
長い沈黙の後。
誠仁親王が、玉を見た。
「君は……自分の本当の名前を知っているのか?」
玉の眉が動く。
「本当の名前?」
「いや」
誠仁親王は首を振った。
「この世界での名前ではない」
そして――。
「君は細川ガラシャになるはずだろ?」
玉の表情が凍りついた。
「……」
「細川忠興と結ばれ、後に細川ガラシャと呼ばれる」
玉は何も言えない。
信長たちは、その言葉の意味を理解していない。
しかし玉だけは違った。
「……そういうことですか」
ここで信長たちに二人での話し合いにさせてほしいと懇願した。
二人きりでないと話せることも話せなくなるからと。
信長たちは外で控えると言った。
そして話し合いは再開された。
誠仁親王は
「やはり、君も知っていたのですね」
玉は確信した。
「殿下も……未来を知っている」
「はい」
「どこまで?」
「私が知っている歴史と、君が知っている歴史が完全に同じかは分かりません」
誠仁親王は淡々と語り始めた。
「ですが、少なくとも私は、本能寺の変を知っていました」
「……」
「信長殿が本能寺で死ぬこと」
「……」
「明智光秀が謀反人になること」
「……」
「その後、秀吉が天下を取ること」
「……」
「そして、君が細川忠興と結ばれ、細川ガラシャとして生きること」
玉は静かに息を吐いた。
「では、殿下は……歴史通りにしようとしたのですね」
「そうです」
「なぜ?」
誠仁親王は少し考えてから答えた。
「最初は、自分自身を救うためでした」
「自分自身を?」
「私は、自分がどのような人生を送り、どのような時代を生きるのかを知ってしまった」
誠仁親王は、自嘲するように笑った。
「未来を知っているということは、決して幸せなことではありません」
玉は黙って聞いている。
「私は知っていました。織田信長という人物が天下を大きく変えることを。そして、信長殿の力が強くなればなるほど、朝廷の存在そのものが武家の権力に左右されるようになる」
「だから父を?」
「それだけではありません」
誠仁親王は首を横に振る。
「私は、歴史を知っていたからこそ、信長殿を恐れた」
「……」
「信長殿が天下を取れば、朝廷を必要としなくなるのではないか。そう考えた」
玉は静かに返した。
「父は朝廷を必要としないのではなく、朝廷を利用するでしょう」
「その違いが、当時の私には分からなかった」
誠仁親王は認めた。
「そして私は、最悪の未来を避けようとした」
「そのために、本能寺を?」
「はい」
玉は目を細める。
「しかし、殿下の話には一つ疑問があります」
「何でしょう?」
「歴史通りにするには、なぜ秀吉を選んだのです?」
「謀反人となれば秀吉の天下人への道は絶たれるはず」
誠仁親王は答えた。
「秀吉だろうが家康だろうが構わなかったのです天下人が誰でも」
「……」
「織田信長という人物以外なら」
「家康になろうとも歴史通りに幕府は続いていくだろうと」
「……」
「私は秀吉に『天下を取れる』と思わせればよかった」
「欲を利用した」
「はい」
「だから征夷大将軍の話を使った」
「その通りです」
誠仁親王は、一つずつ説明していく。
「信長殿を京へ呼ぶ理由が必要だった」
「それが征夷大将軍の話」
「はい」
「信忠様も同行するよう仕向ける」
「織田家の中枢を一度に失わせるためです」
「そして本能寺」
「秀吉には、信長殿と信忠様を討てば織田家は混乱すると伝えた」
玉はそこで尋ねる。
「その後は?」
「秀吉に天下を取らせる」
「……本当に?」
「いいえ」
誠仁親王は即答した。
「それもまた、秀吉を動かすための餌です」
玉は息を呑んだ。
「秀吉が本当に天下を取れると思っていたかどうかは問題ではありません」
「動けばよかった」
「そうです」
「家康が秀吉がした役目をしても良いと思っていました」
「……恐ろしい」
「人間は、欲しいものを目の前に置けば、自ら動きます」
玉は、秀吉が一万人を率いて本能寺へ攻め込んだことを思い出した。
確かに説明がつく。
秀吉は誰かに操られた。
だが、命令されたのではない。
自分の欲望によって、自分から動いた。
だからこそ、誰にも怪しまれにくかった。
玉はさらに問う。
「では、毛利は?」
「信長殿が討たれた後の利益を示しました」
「寺社は?」
「信長殿への反感を利用した」
「公家は?」
「朝廷を守るためだと思わせた」
「近衛様も?」
「はい」
「徳川は?」
誠仁親王は少し間を置いた。
「徳川家康殿は、直接の共犯ではありません」
玉の目が鋭くなる。
「……やはり」
「徳川には、別の情報を流しただけです」
「だから、徳川から私に『京へ行くのは控えたほうがよい』という忠告が来た」
「そうです」
玉はそこで、一つの違和感を思い出した。
徳川が玉へ忠告した。
その直後に本能寺。
そして岐阜には刺客。
あまりにも出来すぎていた。
「では、私への刺客も?」
「私の計画の一部です」
玉の顔から表情が消える。
「なぜです」
「信長殿と信忠殿が死んだ後、君が生きていれば、織田家をまとめる存在になるからです」
「……」
「そして、君は歴史を知っている」
「だから?」
「君が存在している限り、私の知っている歴史にはならない」
玉はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「違います」
「……?」
誠仁親王が玉を見る。
「自分の知っている歴史から外れることが怖かったのでしょう?」
「……」
「父が本能寺で死ぬはずだった」
「……」
「光秀が謀反人になるはずだった」
「……」
「秀吉が天下を取るはずだった」
「……」
「私が細川ガラシャになるはずだった」
玉は一つずつ言葉を重ねる。
「それが全部、変わってしまった」
誠仁親王は何も言わない。
「だから、歴史を戻そうとした」
「……そうです」
初めて、誠仁親王の声が震えた。
「私は……怖かったのです」
「何が?」
「未来が分からなくなることが」
誠仁親王は俯いた。
「未来を知っていると思っていたからこそ、私は自分の行動に確信を持てた」
「……」
「しかし、君が現れた」
玉を見る。
「明智玉であるはずの君が、私の知っている玉ではない」
「……」
「本来なら、君は細川家へ嫁ぐ」
「はい」
「だが、この世界では違う」
「父も本能寺で死ななかった」
「はい」
「信忠も生きている」
「はい」
「秀吉も天下人にはならない」
「……」
「つまり――」
誠仁親王は苦しそうに笑った。
「私の知っている未来は、もう存在しない」
玉は静かに答えた。
「そうです」
「……」
「でも、それは悪いことなのでしょうか?」
誠仁親王が顔を上げる。
「私は、細川ガラシャになる必要はありません」
「私は明智玉としてこの世界に来てしまった。」
「もちろんガラシャの最期も知っています。」
「炎の中で死んでいく運命だと」
「私はだから歴史を変えたかった」
「……」
「父が本能寺で信長様を討ち謀反人となること
そして私が細川との運命を自らの意思で断ち切るよう情報を集め」
玉は記憶を遡るような目をしていた。
「そうあの時はまだ使用人としても入ったばかりで何もできない、しかし私は必死でした。」
「……」
「そして濃姫様に見入られて料理を作る機会に恵まれた」
「そしてあの細川も同席していた宴席での料理」
「一種の賭けでした。しかし信長様が細川との縁を断ち切って下された」
「……」
「その後の朝廷と父との事でも苦労しました」
「あれはもう一度しろと言われても二度とごめんです」
「本能寺を防ぐことが最大の目的でしたから、私も必死に知恵を絞りましたよ」
そう言って玉は笑顔を見せた。
「父も、本能寺で死ぬ必要はありません」
「……」
「信長様も、信忠様も」
玉は静かに続ける。
「秀吉が天下を取る必要もありません」
「……」
「歴史を知っているからといって、その歴史を再現する義務はないのではありませんか?」
誠仁親王は答えられなかった。
玉は続ける。
「殿下は、歴史を変えたかくなかった」
「……」
「けれど、未来を知っている自分の都合を優先してしまった」
「……」
「その結果、多くの人を駒にした」
誠仁親王は目を閉じた。
「はい」
「秀吉も」
「はい」
「近衛様も」
「はい」
「毛利も」
「はい」
「そして父まで」
「……はい」
玉はしばらく黙った。
やがて、穏やかな声で告げる。
「私は、あなたの事が理解できる気がします。」
誠仁親王が目を開く。
「そうですか?」
「ですが――」
玉は真っ直ぐに親王を見る。
「あなたのした事は理解できても納得は出来ません」
「殿下は間違えました」
玉は答える。
「ですが、殿下が知っている未来に従う必要がないことを、これから証明すればよい」
「……」
「この世界は、もうあなたの知っている歴史ではありません」
誠仁親王は、長い間黙っていた。
そして、初めて力なく笑った。
「……そうか」
「はい」
「君は、本当に……あの玉とは違うのですね」
玉は少しだけ微笑んだ。
「ええ」
そして――。
「私は、私です」
襖の外では、信長たちが待っている。
玉は立ち上がった。
「殿下」
「はい」
「父にすべて話してください」
誠仁親王は頷いた。
「分かりました」
「そして、朝廷そのものを巻き込むことはさせません」
「……はい」
玉は襖へ向かう。
その背中を、誠仁親王が見つめる。
かつて自分が知っていた歴史では、明智玉は細川ガラシャとなった。
だが、この世界では違う。
本能寺で信長は生き残った。
信忠も生き残った。
光秀も謀反人にはならなかった。
秀吉も天下人にはならない。
そして――。
玉も、細川ガラシャにはならない。
誠仁親王はようやく理解した。
自分が恐れていたものは、歴史の崩壊ではなかった。
自分が未来を知らないことだったのだ。




