最終話 歴史の向こう側へ
襖が、静かに開いた。
玉と誠仁親王が、並んで姿を現す。
その表情は、不思議なほど穏やかだった。
部屋の外には、信長、信忠、光秀がいた。
三人とも、黙って二人を見つめている。
「……終わったのか?」
信長が尋ねる。
玉は小さく頷いた。
「はい。すべて、お話ししました」
「そうか」
信長はそれ以上、何も聞かなかった。
だが――。
おそらく、聞こえていたのだろう。
襖一枚を隔てただけの場所にいたのだ。
「歴史から降りる」
誠仁親王がそう言った言葉も。
「私は、私です」
玉がそう答えた言葉も。
全てではなくとも、耳に届いていたはずだった。
誠仁親王は信長の前へ進み、深々と頭を下げた。
「信長殿」
「何だ?」
「私は、これより先、未来を知る者として歴史を動かすことをいたしません」
信長はしばらく親王を見つめた。
そして、
「……それでよい」
短く答えた。
信忠も、光秀も何も言わなかった。
ただ、玉を見る。
玉は三人の視線を受け止め、静かに微笑んだ。
これで、終わった。
本能寺の変は起こらなかった。
父は生きている。
信忠も生きている。
光秀も謀反人にはならなかった。
そして――。
自分も、生きている。
玉はふと、これまでの日々を思い返した。
最初は、ただ一人の娘だった。
父・明智光秀の娘として生まれた。
この時代に生きる一人の女性。
それだけだった。
だが、玉は知ってしまった。
自分が知る歴史では、父が本能寺を起こす。
信長が死ぬ。
父が逆賊となる。
そして自分は細川忠興と結ばれ、後に「細川ガラシャ」と呼ばれる。
その未来を知った時、玉は恐れた。
何とかして父を救いたい。
信長を救いたい。
自分の未来も変えたい。
そう願った。
そのために、できることを一つずつ積み重ねた。
父と話した。
信長と向き合った。
信忠とも未来について考えた。
朝廷との関係を見つめ直した。
そして、歴史に存在しなかった選択肢を一つずつ作っていった。
だが――。
その過程で玉は、何度も思い知らされた。
歴史を変えるということは、
ただ未来を知っているだけではできない。
人間には、それぞれの欲望がある。
恐怖がある。
立場がある。
信念がある。
そして、自分の思惑だけでは決して動かせない。
だからこそ、本能寺の直前になっても、玉は恐れていた。
「本当に防げるのだろうか」
何度もそう思った。
そして実際に、本能寺には一万の兵が押し寄せた。
信長を殺そうとした秀吉。
その背後にいた者たち。
朝廷。
公家。
寺社。
毛利。
そして、そのさらに奥にいた誠仁親王。
全てが一本の糸で繋がっていた。
もし、三宅康貞が来なければ。
もし、玉が信長へ書状を送らなければ。
もし、信忠と光秀が急いで本能寺へ向かわなければ。
もし、玉が五千の後詰を送っていなければ。
もし、信長が秀吉の企みを見抜けなければ。
――歴史は、元の道へ戻っていたかもしれない。
だが、戻らなかった。
玉が選び続けた一つ一つの道が、歴史を変えた。
玉は外へ出た。
京の空を見上げる。
かつて、自分が知っていた歴史の中では、この京で多くのことが起きた。
戦があり。
謀略があり。
裏切りがあり。
人が死んだ。
だが今は違う。
信長は生きている。
信忠もいる。
父もいる。
そして、自分もいる。
「玉」
声がした。
振り返る。
信長だった。
「はい」
「随分と遠くを見ておるな」
玉は少し笑った。
「これまでのことを、思い出しておりました」
「そうか」
「私……最初は、歴史を変えれば幸せになれると思っていたのです」
信長は黙って聞いている。
「でも、違いました」
「何がだ?」
「未来を変えることが目的ではなかったのだと思います」
玉は京の街を見た。
「大切な人たちと、今日を生きること」
「明日をどうするか、自分たちで決めること」
「それが大切だったのだと思います」
信長は、ふっと笑った。
「ならば、これからもそうせよ」
「はい」
光秀が玉の隣に立つ。
「玉」
「はい、父上」
「……よく頑張ったな」
その一言に、玉の胸が熱くなった。
「父上も……」
玉は笑う。
「生きていてくださって、ありがとうございます」
光秀は何も言わなかった。
ただ、娘の頭にそっと手を置いた。
信忠も笑っている。
その光景を見て、玉は思った。
あの未来では、こんな光景を見ることはできなかった。
父は死ぬ。
自分もまた、苦しみの中で生きる。
けれど――。
今は違う。
未来は決まっていない。
だからこそ、人は選べる。
玉は空を見上げた。
青い空が広がっている。
かつて自分が知っていた歴史では、この先にも数え切れないほどの出来事が待っていた。
天下統一。
戦。
政変。
婚姻。
別れ。
そして、多くの人々の人生。
けれど、もう玉には分からない。
分からなくてもいい。
これから先、何が起こるのか。
誰が天下を取るのか。
どの家が栄え、どの家が滅びるのか。
それは、これから生きる者たちが決めていく。
玉は、ゆっくりと歩き出した。
「帰りましょう」
「どこへ?」
信忠が尋ねる。
玉は振り返る。
そして笑った。
「安寧丸のところへ」
その言葉に、皆が笑った。
歴史を変えた少女がいた。
未来を知り、それに抗い続けた少女。
父を救い。
信長を救い。
信忠を救い。
そして、自分自身の未来をも救った。
だが――。
玉はもう、歴史を変えようとは思わなかった。
これからは、歴史に従うのでもない。
歴史と戦うのでもない。
ただ、自分の人生を生きる。
細川ガラシャになる未来もない。
明智光秀の娘として死ぬ未来もない。
決められた結末もない。
あるのは――。
今日という一日。
そして、その先に続いていく明日だけ。
玉はもう一度、空を見上げた。
「……これからは、私たちの物語ですね」
誰も答えなかった。
けれど、その言葉を否定する者もいなかった。
やがて一行は、京の街を歩き始める。
その背中を、春の風が静かに追いかけていった。
――本能寺の変は、起こらなかった。
――明智光秀は、謀反人にはならなかった。
――織田信長は、生き続けた。
そして、明智玉は――。
細川ガラシャには、ならなかった。
歴史に記されたはずだった一人の女性は、
歴史の決めた道から降り、
自らの足で、新しい道を歩き始めた。
これは、歴史を知ってしまった少女が、歴史に抗い、そして最後には歴史ではなく自分自身の人生を選んだ物語。
――完。




