二百五十一話 本能寺――秀吉が恐れるもの
本能寺。
信忠が千名の精鋭を率いて岐阜へ戻った後も、信長は秀吉への尋問を続けていた。
本能寺を襲った一万の兵。
その指揮を執っていた秀吉。
そして、その背後に存在する複数の勢力。
信長は一つずつ、絡み合った糸を解いていくように問いただしていた。
「さて、猿」
「……はい」
「先ほどまでの話を整理しよう」
秀吉は俯いたままだった。
「お前は儂と信忠を同時に殺すつもりだった」
「……はい」
「さらに信秀も狙っていた」
「……」
「そして玉と安寧丸まで」
秀吉は答えなかった。
「織田家の当主、その嫡男、血筋を繋ぐ者まで消す。そこまでやれば、織田家が混乱するのは当然だ」
「……」
「その混乱に乗じて、お前が天下を取る」
秀吉は小さく頷いた。
「そのつもりでございました」
信長はしばらく秀吉を見つめた。
「だが、疑問がある」
「……」
「お前一人で考えた策ではない」
秀吉の目が動いた。
「一万もの兵を用意し、毛利との関係を整え、寺社や公家まで動かし、さらに朝廷の話まで利用する」
信長は冷たく言った。
「お前の頭だけで、そこまでの策を組み立てたとは思えぬ」
「……」
「誰と打ち合わせた?」
「……何人かの者と」
「誰だ?」
「毛利方の者、公家、寺社の者……」
「それだけか?」
「……」
「徳川は?」
秀吉は黙った。
信長の目が細くなる。
「徳川も絡んでいるのか?」
「直接ではございませぬ」
「直接ではない?」
「徳川には、徳川の事情がございます」
「ほう」
「徳川を利用したというより……」
秀吉は言葉を選ぶ。
「徳川がどう動くかを、こちらで利用したのでございます」
光秀が口を挟んだ。
「つまり徳川家康自身が、この謀略の全貌を知らなかった可能性がある」
「……はい」
「石川数正ら、外交を担う者の動きを利用した?」
「そこまでは……」
秀吉は濁した。
信長はそれ以上追及せず、別の質問を投げた。
「毛利は?」
「……」
「お前は毛利と話をつけていたと言ったな」
「はい」
「ならば今、毛利はどこにいる?」
秀吉の顔が曇った。
「……備中方面に」
「兵を動かしているのか?」
「大規模には動かしておりませぬ」
「なぜだ?」
「本能寺が成功した後に、状況を見て動く手筈でした」
信長は鼻で笑った。
「つまり、毛利も全てを知らされていたわけではない」
「……はい」
「利用したのだな」
「……」
「お前自身が、毛利を駒として使った」
秀吉は答えなかった。
信長は続ける。
「寺社は?」
「反織田の動きがあるところを利用しました」
「公家は?」
「朝廷に近い者たちから、情報を得ました」
「朝廷は?」
秀吉はそこで完全に口を閉ざした。
「……」
「答えよ」
「……朝廷そのものが、私に協力したわけではございません」
「では誰だ?」
「……」
「誰が征夷大将軍の話を持ち出した?」
秀吉の顔色が変わった。
信忠がいれば、間違いなくここで詰め寄っていただろう。
だが今は岐阜に向かっている。
代わりに光秀が静かに問いただした。
「信長様を京へ誘い出すためには、朝廷の権威が必要だった」
「……はい」
「信長様だけではない」
秀吉は黙っている。
「信忠様も京へ同行することを見越していた」
「……はい」
「そして二人をまとめて本能寺で討つ」
「……」
「織田家の当主と嫡男を同時に失わせる」
秀吉は俯いた。
「それが計画だったのですね」
「……はい」
信長は静かに息を吐いた。
「征夷大将軍の話で儂を京へ呼ぶ」
「……」
「その途中で本能寺に泊まるよう仕向ける」
「……」
「そして、お前が一万の兵を率いて襲う」
「……はい」
「見事な筋書きだ」
信長の声は静かだった。
「だがな」
信長は秀吉を見下ろした。
「お前の誤算は、玉が儂らを疑ったことだ」
秀吉は顔を上げた。
「玉は危惧していたのだろう?」
信忠からも聞いていた。
玉が異常を感じ、急いで五千の兵を送った。
その兵がなければ、信長と信忠は千の兵だけで一万の軍勢を迎えていた。
結果はどうなっていたか分からない。
「……はい」
秀吉は認めた。
「玉様の存在は、想定以上でございました」
「玉はお前たちの計画など知らぬ」
「はい」
「それでもお前たちの策を狂わせた」
「……」
信長は笑った。
「面白いものだな」
そして突然、表情を消す。
「だが、まだ分からぬ」
「……」
「お前は本当に天下だけを欲したのか?」
秀吉は答えない。
「天下を欲するだけなら、儂と信忠を殺せばよい」
「……」
「なぜ信秀まで狙った?」
「……」
「なぜ玉と安寧丸まで消そうとした?」
「……」
「織田家の血筋そのものを断つ必要があると考えたのは、誰だ?」
秀吉は唇を噛んだ。
「……私だけではございませぬ」
信長の目が鋭くなる。
「誰だ」
「……」
「答えろ」
秀吉は苦しそうに息を吐いた。
「私が聞かされたのは……」
「うむ」
「織田家は、信長様と信忠様が亡くなれば終わる……と」
「誰から?」
「……」
「誰だ」
「近衛様を通じて伝えられた話もございました」
信長は頷いた。
「やはり近衛か」
しかし秀吉は首を振った。
「ですが……」
「何だ?」
「近衛様が全てを知っていたとは思えませぬ」
その言葉に、光秀が反応した。
「どういう意味だ?」
「近衛様も……誰かの話を受けて動いていたように見えました」
「誰からだ?」
「……分かりませぬ」
「本当に?」
「はい」
秀吉の声が震えた。
「ただ……」
「ただ?」
「その方については、私も直接お会いしたことはございませぬ」
「ならば何故、その者が存在すると分かる?」
秀吉はしばらく沈黙した。
そして小さく答えた。
「近衛様が、その方の意向に従って動いていたからでございます」
本能寺の中が静まり返った。
信長と光秀が顔を見合わせる。
信長が問う。
「その者は、武将か?」
「……違います」
「では公家か?」
「……」
秀吉は答えに詰まる。
「朝廷に近い者なのか?」
「……はい」
信長の目が鋭くなる。
「名は?」
秀吉は固く口を閉ざした。
「知らぬのか?」
「……知ってはおります」
「ならば言え」
秀吉の顔から血の気が引いていく。
「……それだけは」
「なぜだ?」
「私の口から申し上げれば……」
秀吉は震えながら顔を上げた。
「私一人の罪では済まなくなります」
信長は立ち上がった。
「最初からそう言っておる」
そして冷たい声で告げる。
「この謀略に関わった者を、一人残らず明らかにする」
秀吉は俯いた。
その瞬間――。
本能寺の外から、光秀の配下が駆け込んできた。
「申し上げます!」
「何だ」
「京方面の情報が入りました!」
光秀が振り返る。
「申せ」
「朝廷周辺に、今回の本能寺の件と関わる動きがあった可能性がございます」
信長の目が細くなる。
秀吉は顔を上げた。
そして、その名を聞くことを恐れるように、再び俯いた。
まだ、終わっていない。
本能寺を起こした男の背後には――。
さらに奥にいる誰かがいる。




