二百五十話 本能寺から岐阜へ――信長の命 本能寺。
本能寺。
秀吉の尋問が続く中、信長は一度、秀吉から視線を外した。
頭の中では、いくつもの情報が繋がり始めていた。
本能寺を襲った一万の兵。
秀吉。
黒田官兵衛。
毛利との繋がり。
朝廷や寺社、公家の動き。
そして――岐阜へ送り込まれた刺客。
しかも、その刺客は玉と安寧丸のすぐ近くまで入り込んでいた。
信長の表情が険しくなる。
「……まだ終わっておらぬ」
光秀も頷いた。
「私もそう考えております」
「本能寺だけが目的なら、岐阜へ刺客を送る必要などない」
「はい」
「つまり、奴らにはまだ別の狙いがある」
信長はしばらく考えた。
そして、信忠を見る。
「信忠」
「はっ」
「岐阜へ戻れ」
信忠は一瞬、目を見開いた。
「岐阜へ……?」
「そうだ」
信長の声には、有無を言わせぬものがあった。
「玉を守れ」
「……!」
信忠の表情が変わる。
「父上、しかし――」
「これから何が起こるのか、儂にも見当がつかん」
信長は秀吉を睨む。
「こやつ一人の仕業なのか、それともさらに後ろがいるのか。まだ何も分かっておらぬ」
「……」
「ならば、用心に越したことはない」
信忠は黙って父の言葉を聞いていた。
信長は続ける。
「お前が連れてきた千の兵を、岐阜へ戻せ」
「千名全てを、ですか?」
「そうだ」
信長は即答した。
「本能寺にはまだ兵がおる。それに秀吉を捕らえた以上、今すぐ大軍が必要というわけでもない」
そして信忠を真っ直ぐ見る。
「玉を守れ」
「……承知しました」
「そして、安寧丸もだ」
「必ず」
信忠は深く頭を下げた。
その顔には、既に迷いはなかった。
玉が本能寺へ送った五千の兵がなければ、自分も父も生きていなかったかもしれない。
今度は自分が玉を守る。
「父上」
信忠は顔を上げた。
「必ず岐阜を守ります」
「頼むぞ」
信長は短く答えた。
「そして、何かあればすぐに知らせよ」
「はっ!」
信忠は踵を返した。
外へ出ると、同行していた千名の兵に命じる。
「これより岐阜へ戻る!」
「はっ!」
兵たちは直ちに準備を始めた。
馬に乗る者。
武具を確認する者。
鉄砲を整える者。
本能寺へ駆け付けたばかりの兵たちだったが、休む間もなく再び移動を始める。
信忠は最後に本能寺を振り返った。
そこには父・信長がいる。
そして捕らえられた秀吉もいる。
まだ全てが終わったわけではない。
むしろ――。
これからが本当の戦いなのかもしれない。
「行くぞ!」
信忠の号令が響く。
千の兵が一斉に動き出した。
岐阜へ。
玉と安寧丸を守るために。
その頃、岐阜でも玉は城内の警戒を強めていた。
刺客が入り込んだことで、既に以前のような警備ではない。
城門。
廊下。
居室。
武器庫。
あらゆる場所に兵が配置されている。
玉自身も、いつ何が起きても対応できるよう準備を整えていた。
そして――。
遠くから響く蹄の音。
「お方様!」
家臣が駆け込んでくる。
「何事です?」
「本能寺より、信忠様が戻られます!」
玉の目が見開かれた。
「信忠様が……?」
「はい! 千の兵を率いて、こちらへ向かっております!」
玉はしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「……父上が」
信長が信忠を戻した。
その意味は分かる。
本能寺で何かを掴んだのだ。
そして――。
信長も、まだ何かが起こると考えている。
玉は安寧丸を抱き寄せた。
「……まだ終わっていないのですね」
窓の外を見る。
岐阜へ向かって走る信忠と千の兵。
その姿を見ながら、玉は静かに呟いた。
「ならば、こちらも備えなければ」
本能寺では、信長が秀吉の尋問を続けている。
岐阜では、玉が守りを固めている。
そして京では――。
本当の黒幕が、次の一手を待っていた。




