二百四十五話 本能寺の裏側――岐阜に潜む刃
岐阜城。
本能寺で起きたことを知らせる早馬が到着したのは、玉が安寧丸とともに部屋にいた時だった。
「お方様、ご報告がございます!」
「入りなさい」
家臣が息を切らせて入ってくる。
「本能寺より報せが届きました」
玉は立ち上がった。
「信長様は?」
「ご無事にございます!」
その言葉に、玉は胸を撫で下ろした。
「よかった……」
だが、続く報告に玉の表情が変わる。
「本能寺を襲った一万の兵を率いていたのは……羽柴秀吉でございました」
「……やはり」
玉は小さく呟いた。
予想していた。
歴史を知る玉にとって、秀吉が本能寺に現れる可能性は決して低くなかった。
だが――
「なぜ……?」
それだけは分からない。
秀吉は、史実では信長亡き後、天下統一を果たす。
やがて豊臣秀吉と名を改め、関白の位を授かり、天下をその手に収める。
玉の知る歴史では、それが事実だった。
しかし、この世界では違う。
秀吉は信長を襲った謀反人。
このまま裁かれることになれば、天下人となる未来など存在しない。
「歴史は……もう変わっている」
玉はそう呟いた。
それでも、秀吉がなぜ信長を襲ったのかは分からない。
誰かに唆されたのか。
秀吉自身の野望なのか。
あるいは――
本当に背後に別の人物がいるのか。
玉には判断できなかった。
「蒲生殿を呼んでください」
「はっ」
しばらくすると、襖の外から声がした。
「お方様、失礼いたします」
「どうぞ」
蒲生賢秀が入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「はい」
玉は先ほどの報告を伝えた。
「本能寺を襲った一万の兵を率いていたのは、羽柴秀吉殿だったそうです」
「……羽柴秀吉」
賢秀の顔が険しくなる。
「信長様を狙ったということですな」
「はい」
玉は頷いた。
「ですが、秀吉殿の狙いがまだ分かりません」
「……」
「だからこそ、岐阜の警備を一段上げていただきたいのです」
賢秀は首を傾げた。
「本能寺の戦いは終わりました。それでも、ですか?」
「はい」
玉は静かに答えた。
「岐阜が油断している隙を狙って、刺客が忍び込む可能性があります」
「刺客……」
「秀吉殿が単独で動いていたとは限りません」
玉は続けた。
「もし背後に別の者がいるのなら、本能寺の攻撃が失敗した今、次に狙われるのは誰でしょう?」
賢秀の表情が変わった。
「……お方様」
「私だけではありません」
玉は安寧丸を見る。
「安寧丸もです」
賢秀はすぐに頭を下げた。
「承知いたしました」
「信長様と信忠様が帰還されるまでは、決して油断しないでください」
「お任せください」
賢秀が立ち上がる。
「では、警備を改めて――」
蒲生は警戒すべく移動した。
その時だった。
「お方様!」
一人の侍女が突然、玉へ駆け寄った。
「え?」
玉が振り向く。
その手には――
短刀。
「お方様!」
侍女が短刀を振り上げた。
玉は反射的に安寧丸を抱き込む。
「安寧丸!」
短刀が振り下ろされる。
玉は必死に我が子を庇った。
――ズッ。
鋭い痛みが走る。
「っ……!」
玉の手に深々と刃が入った。
その瞬間。
賢秀が襖を蹴り開けるようにして飛び込んできた。
「何をしている!」
侍女は玉の喉元へ短刀を向けようとしていた。
「お方様!」
賢秀は間一髪でその腕を掴んだ。
刃が玉の喉元へ届く寸前だった。
「離せ!」
侍女が叫ぶ。
賢秀はその腕を捻り上げる。
「黙れ!」
短刀が床へ落ちた。
すぐさま周囲の兵が侍女を取り押さえる。
「捕らえよ!」
「はっ!」
侍女は取り押さえられた。
だが――
玉の手からは血が流れている。
「お方様!」
賢秀が玉を見る。
「大丈夫です」
「その傷では……!」
「安寧丸は?」
「ご無事です」
玉は安寧丸を確認した。
泣いてはいる。
だが、怪我はない。
「よかった……」
玉はようやく息を吐いた。
すぐに城詰めの医官が呼ばれた。
「お方様、手を」
「お願いします」
医官が傷を確認する。
「深い傷でございます。ですが、幸いにも骨までは達しておりませぬ」
応急処置が行われ、傷口を洗い、止血する。
玉はその間、じっと耐えた。
やがて処置が終わる。
「しばらくは、この手をあまりお使いにならぬよう」
「分かりました」
玉は包帯で巻かれた手を見つめた。
そして賢秀へ顔を向ける。
「蒲生殿」
「はい」
「ありがとうございました」
「いえ……」
賢秀は深く頭を下げた。
「間に合っただけにございます」
玉は小さく首を振った。
「間に合わなければ……」
その先を言葉にできなかった。
自分も。
そして安寧丸も。
命を失っていたかもしれない。
玉は今になって、身体が震えていることに気づいた。
「まさか……」
玉は侍女が連れて行かれた方向を見る。
「自分の侍女の中に、裏切り者がいるとは思いもしませんでした」
「……」
「私は、外から刺客が入り込むことばかり考えていました」
それが間違いだった。
敵は、外から来るとは限らない。
すでに中に入り込んでいる可能性がある。
蒲生賢秀は険しい顔をした。
「お方様」
「はい」
「これ以上、同じことを許すわけにはまいりません」
賢秀は即座に命令を出した。
「城内にいる侍女、女中、その他の女性を全て集めよ!」
「はっ!」
「身元を一人ずつ確認する!」
そして、玉のもとへは――
「これより、お方様の身辺には私が指定した者以外を近づけさせぬ」
玉が顔を上げる。
「誰を?」
「お方様のお母上様。そして、御年寄のうち信頼できる者二名」
賢秀は続けた。
「奥向きの最高責任者である統括役の二人にも、お方様の警護を兼ねて常に側にいていただきます」
玉は頷いた。
「お願いします」
「また、城への立ち入りも一時的に制限いたします」
「そこまで……」
「必要にございます」
賢秀はきっぱりと言った。
「外から敵が入る可能性だけではありません」
玉を見る。
「内側に敵がいる可能性が判明した以上、今までと同じ警備では足りませぬ」
玉は何も言わず頷いた。
賢秀は次々と命令を出していく。
城門の警備を増強。
出入りする者を厳しく確認。
城内にいる者の身元を再確認。
武器の持ち込みを禁止。
玉と安寧丸の周囲には、信頼できる者だけを置く。
そして――
「捕らえた侍女は、厳しく尋問せよ」
賢秀の声が低くなる。
「誰の命を受けたのか。誰と繋がっているのか。何を知っているのか」
「はっ!」
玉はその様子を見つめていた。
本能寺では、信長を狙った一万の軍勢が敗れた。
しかし――
それで全てが終わったわけではない。
むしろ、敵が一つの策だけで動いているのではない可能性が出てきた。
玉は包帯を巻かれた手を見つめた。
「……まだ終わっていない」
本能寺の戦いは終わった。
だが、歴史の裏で動いていた者の正体は、まだ見えていない。
そして玉は初めて知った。
敵は、遠くにいるとは限らない。
すぐ隣で笑っていた者が、刃を隠し持っていることもあるのだ。




