二百四十三話 本能寺ニ日前――岐阜に集う兵
本能寺まで、あと二日。
岐阜城下に、慌ただしい足音が響いていた。
安土から急ぎ駆けつけた蒲生賢秀率いる二千の兵が、ようやく岐阜へ到着したのである。
兵たちは長い道中を急ぎに急いできた。
疲労は濃い。
それでも、誰一人として足を止めようとはしなかった。
目的は一つ。
玉と安寧丸を守ること。
そして、何者かによって織田家そのものが狙われているのであれば、その備えを整えることだった。
蒲生賢秀は城へ入ると、兵たちを各所へ配置する指示を出しながら、玉のもとへ急いだ。
そして――
「お方様にお目通りを!」
廊下に響き渡る大声。
周囲の者たちが驚いて振り返る。
玉はその声を聞くと、静かに答えた。
「蒲生殿ですね」
「はい!」
「落ち着いて。どうぞ」
「失礼いたします!」
襖が開く。
そこには、まだ鎧を脱いでいない蒲生賢秀が立っていた。
長旅の疲れも見せず、深々と頭を下げる。
「お方様」
「遠路、ご苦労でした」
「ありがとうございます」
賢秀は頭を上げる。
だが、その表情には強い疑問が浮かんでいた。
「お方様」
「はい」
「安土へ届いた書状には、信長様のお命を狙う策があるとございました」
「はい」
「そして信忠様と明智様が、すでに本能寺へ向かわれたとも」
「その通りです」
「一体、どのような状況で、そのような判断をされたのでございますか?」
賢秀は真剣な顔で尋ねた。
「私はそこを知りとうございます」
玉は頷いた。
「分かりました」
そして、玉は最初から話し始めた。
三宅康貞との面会。
この一連の動きの裏には、何者かが画策していると考えられること。
さらに、徳川家そのものが知らぬうちに利用されている可能性があること。
そして、石川数正が上京することを控えたほうがよいと忠告してきたこと。
「これらをすべて総合して、私は判断しました」
玉は賢秀を見つめた。
「信長様を亡き者とするための策が、現在進行形で進んでいるのではないかと」
賢秀は黙って聞いている。
「そして……」
玉は少しだけ声を落とした。
「その背後には、まだ確証はありませんが、近衛前久様がおられるのではないかと考えています」
「……近衛様」
賢秀の顔が険しくなる。
玉は頷いた。
「確証はありません。ですが、朝廷、寺社、徳川、織田。それぞれの動きを繋げられる立場にいる人物を考えれば……」
そこで言葉を切った。
「近衛前久様が浮かびました」
賢秀はしばらく黙っていた。
そして――
みるみる顔が赤くなっていく。
拳が強く握られた。
「……許されん」
「蒲生殿」
「信長様を亡きものにするなど……」
声が震えている。
怒りを抑えようとしているのが分かる。
「織田家を弄ぶ者がいるというのか……」
そして、ついに怒りを抑えきれなくなった。
「許されん!」
賢秀の声が部屋に響いた。
「もし、本当にそのような者がいるのであれば――」
歯を食いしばる。
「根切りにしてやる!」
玉は静かに賢秀を見つめた。
その怒りは、偽りではない。
織田家臣として、信長への忠誠を持つ者として、当然の反応だった。
「蒲生殿」
玉が静かに声を掛ける。
「はい」
「怒りは分かります」
賢秀は黙った。
「ですが、今は敵が誰なのか分かりません」
「……」
「だからこそ、守りを固めてください」
玉は続けた。
「信忠様と光秀殿が本能寺へ向かわれています。その間、岐阜を守るのは蒲生殿です」
賢秀は深々と頭を下げた。
「承知いたしました」
「そして……安寧丸をお願いします」
その言葉に、賢秀の表情が変わった。
「お任せください」
即答だった。
「この命に代えても、お守りいたします」
玉は小さく頷いた。
その時だった。
城外から、別の騒ぎが聞こえてきた。
「到着しました!」
「兵站部隊も到着しました!」
玉と賢秀が同時に振り返る。
そこへ家臣が駆け込んできた。
「お方様!」
「どうしました?」
「先に送られました後詰めが本能寺に到着いたしました!」
玉の表情が変わった。
「本能寺に?」
「はい! 五千の兵、無事に到着しております!」
玉は静かに息を吐いた。
「……間に合った」
さらに家臣が続ける。
「兵站部隊も、続いて到着しております!」
玉は頷いた。
本能寺へ向かった信忠と光秀を援護するために急派した五千。
その兵たちが、ついに本能寺へ到着した。
そして兵站部隊も、その後を追って到着し始めている。
これで、本能寺にいる織田家の兵力は大きく増えた。
信忠。
光秀。
そして、千名の兵。
さらに後詰めの五千。
玉が考えられる限りの備えが、着実に本能寺へ集まっている。
しかし――
時間は止まらない。
玉は地図へ目を落とした。
本能寺。
その場所をじっと見つめる。
「……あと一日」
玉が呟いた。
賢秀も地図を見る。
「明日……ですか」
「はい」
明日。
信長が本能寺にいる。
そして、史実ではその場所で大きな事件が起きる。
だが、今回は違う。
本能寺には信忠がいる。
明智光秀もいる。
千名の兵もいる。
そして、五千の後詰めも到着した。
さらに兵站も整いつつある。
それでも――
玉の胸にある不安は消えなかった。
敵が誰なのか。
どこから来るのか。
本当に信長を狙っているのか。
そして、自分が疑っている近衛前久が本当に関わっているのか。
まだ何一つ確証はない。
それでも玉は、自分にできることをすべてやった。
「……これ以上は、私にはできませんね」
玉は小さく呟いた。
あとは、信忠と光秀。
そして信長自身に託すしかない。
玉は地図から目を離し、安寧丸のいる方角を見た。
「何も起きなければ、それでいい」
それが玉の願いだった。
本能寺まで、あと一日。
歴史が動く、その瞬間が迫っていた。




