第二百四十二話 本能寺七日前――信長、迫る危機を知る
本能寺七日前――信長、迫る危機を知る
信忠たちは、馬を全速力で走らせていた。
脱落する者は、後から来ればいい。
今は一刻でも早く本能寺へ到着する。
それだけを考えていた。
信忠が率いる兵は、総勢千名。
その中には精鋭も多く含まれている。
しかし、全員が騎馬というわけではない。
徒歩の兵もいる。
馬に乗れる者と、徒歩で進む者。
どうしても速度には差が出る。
だからこそ信忠は、部隊全体の歩調を合わせることを捨てた。
「遅れた者は後から来い!」
「殿!」
「構わん! 本能寺へ急ぐ!」
信忠自身が馬を走らせる。
その後を、選ばれた騎馬の兵たちが追う。
光秀もまた馬を駆り、信忠に続いた。
一刻。
また一刻。
休息すら最低限に抑え、ひたすら西へ。
そして――
二日目。
ついに、本能寺が見える場所まで到達した。
「……見えた!」
誰かが叫ぶ。
信忠は馬上から前方を見つめた。
本能寺。
その姿が、確かに見える。
「父上は……」
信忠は焦りを隠せなかった。
「父上は今、どこに?」
「本能寺におられるはずです!」
「ならば急げ!」
信忠はさらに馬を加速させた。
本能寺の門前へ到着すると、ほとんど馬から飛び降りるようにして駆け込んでいく。
「信長様!」
その後ろから光秀も続いた。
「信長様!」
二人のただならぬ様子に、周囲の者たちが驚く。
そして――
本堂の奥。
そこには、驚くほど穏やかな光景が広がっていた。
信長は、まるで何も知らないかのように、ゆったりと寛いでいた。
茶を口にしながら、静かな時間を過ごしている。
「……父上!」
信忠の声に、信長が顔を上げる。
「信忠?」
その姿を見た瞬間、信長は眉をひそめた。
息を切らしている。
衣服も乱れている。
その後ろには明智光秀。
さらに、その後方には大勢の兵。
明らかに尋常ではない。
信長は一瞬で何かを察した。
「何があった?」
信忠が答える前に、信長は立ち上がった。
そして、
「具足を」
家臣に命じた。
「はっ!」
すぐに武具が運ばれてくる。
信長は手早く身につけていった。
普段の穏やかな姿から、一気に戦場の顔へと変わっていく。
「話せ」
信忠は息を整えながら、玉から聞かされたこと。
三宅康貞との接触。
徳川まで利用されている可能性。
石川数正が上洛を控えるよう忠告されたこと。
そして――
「父上を亡き者にするための策が、すでに動いていると玉は判断しました」
信忠はすべてを話した。
光秀も補足する。
「まだ確証はありません」
「だが、玉はこれまでの動きを総合し、そう判断した」
信長は黙って聞いていた。
やがて、
「……なるほどな」
低い声が落ちる。
その瞬間だった。
信長の顔が、みるみる赤くなっていった。
「儂を……殺す?」
怒りが滲む。
「儂を亡き者にするために、裏で策を巡らせている者がおるというのか」
「はい」
信忠が答える。
信長は拳を握り締めた。
しかし、しばらくすると怒りを押し殺すように息を吐いた。
「……よかろう」
その目が鋭くなる。
「ならば、こちらも備えるまでよ」
その翌日。
遅れていた千名の兵たちも、ようやく本能寺へ到着した。
疲労は隠せない。
しかし、その装備を見れば、急いで駆けつけた兵とは思えないほどだった。
完全武装。
槍。
弓。
そして――
鉄砲。
千名の兵が本能寺周辺に展開する。
信長はそれを眺めていた。
「ふむ」
少しずつ余裕が戻ってきたようだった。
信忠、光秀、そして千名の兵。
さらに後続も向かっている。
「で?」
信長は口元を僅かに歪めた。
そして、どこか悪戯を思いついた少年のような顔になる。
「誰が儂を襲ってくるのだ?」
信忠と光秀は顔を見合わせた。
「……それが」
信忠が答える。
「まだ分かっておりません」
「ほう」
信長の口元がさらに吊り上がる。
「敵も分からぬのに、千の兵を連れて飛んできたというわけか」
「玉が、それほどの危険があると判断しました」
「なるほど」
信長は笑った。
「ならば面白い」
光秀が怪訝そうに見る。
「信長様?」
信長は立ち上がった。
そして、本能寺の外に並ぶ兵たちを眺める。
「敵が誰であろうと構わぬ」
鋭い笑み。
「儂を殺そうとしているというのなら――」
信長は腰の刀へ手を置いた。
「こちらから、その顔を拝みに行くまでよ」
本能寺に、織田の兵が集まり始めていた。
しかし――
信忠も光秀も、まだ知らない。
この時点で信長を狙う者が誰なのか。
そして――
玉が最も恐れていた「本能寺」という場所に、歴史とは異なる形で、すでに千名もの織田兵が集結していることを。
本能寺の歴史は、確実に変わり始めていた。




