二百四十一話 本能寺七日前――後悔なき備え
玉からの報告を受けた信忠と光秀が動き始めてから、織田家の動きは一気に慌ただしくなった。
目的はただ一つ。
――信長を救う。
そのために、織田家の軍勢が急ぎ本能寺へ向かうことになった。
兵站のことなど、今は考えている余裕はない。
まずは本能寺へ。
信長の身に何かが起きる前に、救援できる位置まで兵を進める。
それだけが最優先だった。
玉もまた、出来る限りの手を打っていた。
「襲ってくる勢力が、どこの者なのかは分かりません」
玉は集められた者たちに告げた。
「ですが、大軍ではないと思っています」
玉が知る歴史では、本能寺を襲う軍勢は決して織田家全軍を相手にするような規模ではない。
だからこそ、玉は考えた。
ならば――
備えておいて損はない。
「岐阜の兵を集めてください」
「どれほどに?」
「出せるだけ」
その言葉によって、岐阜に詰めていた兵たちが次々と集められた。
織田家の兵。
足軽。
そして、戦になれば槍を取ることになる農民たち。
身分も立場も関係なく、今出せる者を集める。
総勢――五千。
玉はその兵たちを、本能寺へ向かった信忠と光秀の援護に回すよう指示した。
「ただし、兵站部隊も後から追わせてください」
「兵站も?」
「はい」
玉は頷いた。
「急ぐことが最優先です。ですが、もし戦闘が長引いたら?」
食料が必要になる。
水も必要になる。
矢も槍も必要になる。
負傷者が出れば、その手当ても必要になる。
「その時に、兵站部隊が役に立つはずです」
玉は地図を見つめた。
「最初から全てを整えて動く必要はありません。まずは兵を送り出す。後から必要なものを届ければいい」
今できることを、できるだけ早く。
それが玉の考えだった。
そして――
「これで……いい」
玉は小さく呟いた。
信長を救うため。
信忠を守るため。
光秀を守るため。
そして、織田家そのものを守るため。
出来ることは全てやる。
後から、
「あの時、あれをしておけば」
などと思わないために。
玉はそれだけを考えていた。
だが、一つ問題が残っていた。
――安寧丸。
玉自身も危険である。
信忠と光秀が岐阜を離れれば、岐阜は手薄になる。
もし今回の策が信長だけを狙ったものではなかったら。
もし、その隙を狙って玉や安寧丸を人質に取ろうとする者が現れたら。
あるいは――
「……安寧丸を、無きものにしようとする可能性もある」
玉は顔を曇らせた。
自分が狙われるだけならまだいい。
だが、安寧丸は違う。
幼い命だ。
政治の道具にされる可能性もある。
だから玉は、一通の書状を用意した。
宛先は――安土。
書状には、現在までに分かっていることを全て記した。
信長を亡き者とするための暗躍が、現在進行形で進んでいること。
そのため、信忠と明智光秀が急ぎ本能寺へ向かっていること。
そして――
その二人が岐阜を離れている間、岐阜そのものが危険になる可能性があること。
特に、
玉と安寧丸が人質に取られる。
あるいは、口封じのために命を狙われる。
その可能性を記した。
最後に、玉は強く援軍を求めた。
「安土より先軍を」
書状を託された使者は、すぐさま安土へ向かった。
一刻も無駄にはできない。
そして――
安土。
玉の書状を受け取った者は、内容を確認すると顔色を変えた。
「すぐに蒲生様へ」
ほどなくして、書状は蒲生賢秀のもとへ届けられた。
賢秀は織田家の命を受け、安土の留守を預かる責任者である。
書状を読み進めるにつれ、その表情が険しくなっていった。
「……信長様を亡きものにする策が進んでいるだと?」
信じがたい内容だった。
しかし――
玉が、このようなことで虚言を書くはずがない。
しかも信忠と光秀まで、すでに動いている。
ならば、これは非常事態だ。
賢秀は迷わなかった。
「兵を集めよ!」
家臣たちが一斉に動き始める。
「岐阜へ向かわせる!」
「はっ!」
「目的は岐阜の守りだ。玉様と安寧丸様を守れ!」
命令が飛ぶ。
兵が集められる。
武具が用意される。
馬が引き出される。
安土の町が、にわかに騒がしくなっていった。
賢秀は出陣する兵を見つめながら、呟いた。
「信長様……」
まさか。
そんなことが起きるなどとは、まだ信じられない。
だが、もし本当に何者かが信長の命を狙っているのなら。
そして、その策が信忠や光秀のいない岐阜にまで及ぶのなら。
「何としても、玉様と若君を守らねばならぬ」
兵たちは岐阜へ向けて進み始めた。
一方、岐阜では。
玉が城下を見つめていた。
本能寺へ向かった五千の兵。
後を追う兵站部隊。
安土から来る援軍。
そして、本能寺へ向かった信忠と光秀。
玉は、自分にできる限りの手を打った。
「……これで、いい」
そう言い聞かせる。
それでも不安は消えなかった。
敵が誰なのか。
どれほどの規模なのか。
どこから来るのか。
何一つ分からない。
ただ一つ分かっていることがある。
敵は、玉たちが知る歴史をなぞろうとしている。
ならば――
その歴史を、こちらから壊すしかない。
玉は安寧丸を抱き上げた。
「大丈夫です」
小さな我が子に言い聞かせるように呟く。
「母が、必ず守ります」
そして玉は、遠く本能寺のある方角へ目を向けた。
あと七日。
いや。
もう、七日しかない。
それでも玉は、最後まで諦めなかった。
後悔しないために。
今できることを、全てやる。
それだけだった。




