第二百三十八話 「 裏の顔――画策した者」
信長へ送った書状の返書を、玉は何度も読み返していた。
内容は、予想していた通りだった。
信長は朝廷との折衝を優先し、征夷大将軍任官に向けた話を進めている。
そして、諸事が整えば上洛する。
それだけだった。
「……やはり」
玉は静かに呟いた。
信長自身は、今回の件を問題の中心とは考えていない。
むしろ、何者かが信長の周囲で話を組み立て、その結果だけを信長が受け取っている。
そう考えた方が辻褄が合う。
「大元を探さなければ……」
玉は文を畳んだ。
信長に上洛を願うだけでは駄目だ。
その前に、今回の一件を生み出している根そのものを信長に突きつける。
そして、それを解決したうえで上洛してもらう。
それしかない。
だが――
その時だった。
「お方様」
襖の向こうから声がした。
玉は顔を上げる。
「何です?」
「お方様への謁見を求めている者がございます」
「……誰です?」
「三宅康貞殿にございます」
玉の表情が変わった。
「三宅……康貞?」
聞き覚えのある名だった。
徳川家に仕え、石川数正の側近として実務を担う男。
外交や寺社との交渉にも関わり、京との繋がりも深い。
その男が、この時期に自分を訪ねてくる。
偶然とは思えなかった。
玉の胸に、嫌な予感が走った。
――裏の顔。
表の政では見えないところで、人と人を繋ぎ、情報を集め、時には誰かの意志を別の者の意志として動かす者たち。
玉自身も、これまで何度かその存在を感じていた。
そして今。
その「裏の顔」を代表する者が、自分の前に姿を現そうとしている。
「……通してください」
「はっ」
しばらくして、襖が静かに開いた。
一人の男が入ってくる。
落ち着いた身なり。
武将としての威圧感を前面に出すこともなく、しかし、その目だけは鋭かった。
三宅康貞。
玉は、男の目を見た瞬間に理解した。
この男は、ただの使者ではない。
「お初にお目にかかります」
康貞は深々と頭を下げた。
「三宅康貞にございます」
「……三宅殿」
「はい」
玉は慎重に言葉を選んだ。
「このような時期に、私を訪ねてこられた理由をお聞かせ願えますか?」
康貞はすぐには答えなかった。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「お方様は、今回の一件をお調べになっている」
「……」
「信長様へも書状を送られた」
玉の指が僅かに動いた。
「なぜ、それを?」
「裏の者にとって、京で何が起きているのかを知らぬことは、死ぬことと同じにございます」
康貞の声は静かだった。
「では、やはり……」
「はい」
康貞は玉の言葉を遮るように答えた。
「お方様の考えておられる通りです」
玉は息を呑んだ。
「今回の一件には、裏で糸を引いている者がおります」
「誰です?」
即座に問い返した。
康貞は黙った。
その沈黙が、何よりも重かった。
「……三宅殿」
「申し上げれば、後戻りはできませぬ」
「構いません」
玉は康貞を真っ直ぐ見つめた。
「ここまで来た以上、私は真実を知りたい」
康貞は僅かに目を細めた。
「では、一つだけお尋ねいたします」
「何でしょう?」
「お方様は、信長様が今回の騒動の主犯だと思われますか?」
「いいえ」
玉は即答した。
「信長様が全てを承知で動かしているのなら、もっと別の動きになっているはずです」
康貞は静かに頷いた。
「その通りにございます」
「ならば……誰かが信長様を利用している」
「はい」
玉の背筋に冷たいものが走った。
康貞は懐から一枚の紙を取り出した。
「これを」
玉が受け取る。
そこには、いくつもの名前が記されていた。
公家。
寺社。
武家。
商人。
そして――徳川。
玉の目が止まった。
「……徳川?」
「驚かれましたか」
「当然です」
「ですが、ここに書かれているのは、徳川が黒幕だという証ではございません」
「では何なのです?」
康貞は低い声で答えた。
「徳川もまた、利用されている可能性があるという証にございます」
「……何ですって?」
玉は紙を見つめた。
そこには一つの名前が、最後に記されていた。
しかし、その名前だけは墨で塗り潰されている。
「誰なのです?」
「まだ確証がございません」
「三宅殿ほどの方が?」
「裏の者が最も恐れるのは、確証のないまま人を疑うことでございます」
康貞はそう言って立ち上がった。
「ただし、一つだけ確かなことがございます」
「何です?」
康貞は玉を見た。
「この者は、信長様の周囲だけを動かしているのではありません」
「……」
「徳川も、朝廷も、寺社も、そして――お方様の婚姻に関する話までも」
玉の顔から血の気が引いた。
「私の……婚姻?」
「はい」
康貞は静かに頷いた。
「今回の騒動は、それぞれ別の出来事に見えます」
そして、最後に一言。
「ですが、すべてを一本の糸で繋げている者がいる」
玉は立ち上がった。
「その者は……誰なのです?」
康貞は答えなかった。
ただ、襖へ向かいながら振り返った。
「お方様」
「はい」
「信長様に『誰が悪いのか』を突きつけるだけでは、足りませぬ」
「……」
「信長様が、なぜその者の言葉を信じるよう仕向けられているのか――そこまで突き止めなければなりませぬ」
襖が閉じる。
一人残された玉は、手元の紙を見つめた。
そして、ふと気付く。
塗り潰された名前の下。
ほんの僅かに、墨の薄い部分がある。
玉はそれを目を凝らして見た。
「……まさか」
その瞬間。
玉の中で、これまで繋がらなかった幾つもの出来事が、一本の線になり始めた。
誰かが仕組んだ。
信長を動かし。
徳川を動かし。
朝廷を動かし。
そして――
自分の婚姻までも利用して。
玉は紙を強く握り締めた。
「……一体、誰なの?」
その答えは、まだ玉の手の中にはなかった。
だが――
確実に近づいている。
そして玉は知らなかった。
その「画策した者」が、すでに玉のすぐ近くまで手を伸ばしていることを。
本能寺まで後14日




