第二百三十七話 「二人を同じ場所へ」
さらに一月が過ぎた。
本能寺が起きるとされる日まで、いよいよ残された時間が少なくなってきた。
玉は焦っていた。
これまで裏の者たちを各地へ散らし、織田家臣やその配下の動きを徹底的に調べさせてきた。
そして、少しずつではあるが、きな臭い動きも見えてきている。
しかし、決定的なものはまだない。
何より玉自身が知りたいのは――。
「なぜなの?」
ということだった。
なぜ信長と信忠は、同じ場所にいたのか。
当主と嫡男。
しかも織田家の中枢を担う二人である。
普通なら、できる限り同時に危険へ晒すことは避ける。
玉には、それがずっと引っ掛かっていた
。
そんなある日。
「玉様、安土より書状が届いております。」
「安土から?」
玉が書状を受け取る。
封を開く。
差出人は信長だった。
玉は一字一句を確認するように読み進めていった。
朝廷との折衝について。
そして、今後の織田家の立場について。
さらに――。
征夷大将軍への任命について、朝廷との話し合いがかなり具体的なところまで進んでいるという。
玉の目が止まる。
信忠についても書かれていた。
信長が征夷大将軍に任じられる場合、その後継者となる信忠にも、朝廷から相応の高い官位を与えることを検討している。
そのため。
信忠も同席させ、朝廷との話し合いを進めたい。
そのような内容だった。
玉はしばらく動かなかった。
「……これ?」
胸の奥で、何かが繋がった。
「これなの?」
玉は書状を握る。
今までずっと疑問だったこと。
なぜ信長と信忠が同じ場所へ向かうことになるのか。
それが、朝廷との話し合いなら説明がつく。
信長だけではなく、後継者である信忠も朝廷と顔を合わせる必要がある。
征夷大将軍への任命。
そして、その後継者としての信忠。
それならば二人が同じ時期に京へ向かうことも不自然ではない。
「……そういうことだったのね。」
玉はようやく、一つの答えを見つけた気がした。
しかし。
同時に新たな疑問が生まれる。
「でも……。」
なぜ、同じ時期でなければならない?
信長が先に上洛し、朝廷との話を進める。
その後、信忠が上洛してもいい。
逆でもいい。
「時期をずらせばいいじゃない。」
玉は呟いた。
当主と嫡男が同じ場所へ行く。
戦国の世において、これは明らかに危険だ。
どれだけ織田家が強大になったとしても、危険そのものが消えるわけではない。
ましてや今の織田家は、天下統一目前。
二人を同時に失えば、織田家そのものが大きく揺らぐ。
玉は報告書を思い出す。
ここ最近、京へ出入りする者。
朝廷との折衝に関わる者。
信長と信忠の上洛について探る者。
いくつもの情報が重なっていた。
「……まさか。」
玉の背筋に寒気が走った。
もし誰かが。
意図的に信長と信忠を同じ場所へ集めようとしているのなら。
「……そう考えれば。」
これまで見えていたものが、一つの線に繋がる。
玉は急いで信忠のもとへ向かった。
「玉?」
信忠は驚いた顔をする。
その場には光秀もいた。
「どうしたのだ?」
「安土から書状が届きました。」
玉は二人へ内容を伝えた。
朝廷との折衝。
征夷大将軍の話。
そして信忠にも、後継者として相応の位を与える話。
光秀はしばらく黙っていた。
「……なるほど。」
信忠も考え込む。
玉は続ける。
「この話なら、信長様と信忠様が同じ時期に京へ向かう理由は分かります。」
「朝廷との話し合いだからな。」
「はい。」
だが玉は首を横に振る。
「それでも、同時に行く必要はないと思います。」
信忠が玉を見る。
「確かに。」
「信長様が先に行かれ、その後に信忠様が向かわれてもいい。」
「あるいは逆でもいい。」
光秀も頷いた。
「玉の言う通りです。」
「朝廷との折衝であれば、必ずしも二人が同時に上洛する必要はありません。」
「ましてや、当主と嫡男。」
光秀の表情が険しくなる。
「二人を同時に危険へ晒すのは、避けるべきでしょう。」
玉は頷いた。
「例え信長様のご命令であったとしても。」
「危険であることに変わりはありません。」
信忠も腕を組む。
「父上に書状を出そう。」
「はい。」
三人は、信長へ書状を送ることにした。
当主と嫡男が同じ場所へ赴く危険性。
時期をずらして上洛しても朝廷との話し合いには支障がないこと。
織田家の将来を考えれば、二人を同時に動かすべきではないこと。
玉は一字一字、慎重に言葉を選んだ。
だが。
書状を書き終えた玉の胸には、不安が残っていた。
信長はどう受け取るだろうか。
今の織田家は、かつてとは比べものにならないほど巨大になっている。
関東では佐竹、里見、宇都宮を中心に織田の勢力が広がっている。
北条とも協力体制を築いた。
西国でも毛利を除けば、多くの勢力が織田へ臣従、あるいは協力するようになっている。
天下統一は目前。
そんな信長からすれば。
「何を臆病なことを言っている。」
そう思うかもしれない。
玉は拳を握った。
「……これだけでは足りない。」
信長を説得するには、危険性を訴えるだけでは駄目だ。
必要なのは確証。
裏の者たちが掴んでいる情報。
誰が。
誰と。
どのような動きをしているのか。
それを明確にする必要がある。
「もっと調べてもらわなければ。」
玉はすぐに裏の者へ指示を出した。
「今まで以上に慎重に。」
「誰か一人に決めつけてはいけません。」
「しかし、怪しい動きは一つも見逃さないで。」
「承知しました。」
「そして……。」
玉は一瞬言葉を止める。
「信長様と信忠様の上洛に関係する動きは、特に念入りに。」
「はっ。」
男は深く頭を下げた。
そして再び、各地へ散っていった。
玉は安寧丸の眠る部屋へ戻る。
小さな我が子を見つめる。
「安寧丸……。」
玉はそっと頬に触れる。
「絶対に守るから。」
まだ誰も知らない。
玉が知っている未来のことを。
そして、今この世界で何が起きようとしているのかも。
信長も。
信忠も。
光秀も。
誰一人として、「本能寺」という出来事を知らない。
玉だけが、遠い未来の記憶からその危険を知っている。
だからこそ。
玉は、誰にも「本能寺」とは言えない。
ただ、当主と嫡男を同時に危険へ晒すことだけは避けなければならない。
それが玉にできる、最も現実的な対策だった。
そして――。
玉は決意する。
もし信長が書状を読んでも納得しないのなら。
裏の者たちが掴んだ情報を、すべて繋ぎ合わせる。
それを証拠として信長へ示す。
「絶対に、二人を同じ場所へ行かせない。」
玉の焦りは、日に日に強くなっていた。
残された時間は、もう長くない。
本能寺まであと三十三日。




