第二百三十六話 「見え始めた線」
安土城。
信長が岐阜から戻ってきてから、しばらくが経っていた。
安土では、いつも通り政務が進められている。
関東から届く報告。
西国の情勢。
朝廷との折衝。
南蛮との交易。
次々と持ち込まれる案件を、信長は淡々と処理していく。
だが、その裏側では。
玉から命を受けた者たちが、今も動き続けていた。
表向きには何も起きていない。
しかし、裏では確実に情報が積み重なっていた。
そして、この日。
岐阜城に一人の男が戻ってきた。
玉の前に膝をつく。
「お戻りになりましたか。」
「はい。」
「何か分かりましたか?」
男は一瞬、言葉を選んだ。
「……いくつか、気になることがございます。」
玉の表情が変わる。
「聞かせてください。」
「まず、ある家臣の配下が、ここ最近になって京へ頻繁に出入りしております。」
「京へ?」
「はい。」
「理由は?」
「表向きは公務にございます。」
「表向き……。」
玉はその言葉を繰り返した。
「しかし、京で接触している相手が問題でございます。」
「誰です?」
「まだ確定ではございません。」
男は慎重に続ける。
「ですが、その者が以前から接触している商人がおります。」
「商人……。」
「その商人は、さらに別の商人と繋がっております。」
「そして、その先に……。」
男が言葉を止める。
「まだ線が一本になっておりません。」
玉は頷いた。
「構いません。分かっているところまででいいです。」
「はい。」
男はさらに報告を続けた。
一つ。
また一つ。
どれも決定的ではない。
しかし、玉には分かった。
今まで点だったものが、少しずつ繋がっている。
「……変ですね。」
「はい。」
「普通の仕事なら、ここまで同じ時期に同じ方向へ動きません。」
「我らも同じように考えております。」
玉は報告書を見つめた。
「ただし。」
「はい。」
「まだ、その家臣本人が何かを企てていると決めつけてはいけません。」
「承知しております。」
「配下が勝手に動いている可能性もあります。」
「あるいは、別の者に利用されている可能性も。」
「はい。」
玉は深く息を吐いた。
「だからこそ、慎重に。」
「一人に絞らず、全員を追ってください。」
「承知いたしました。」
「そして……。」
玉は少し迷ってから言った。
「京だけではありません。」
「はい。」
「安土も。」
「岐阜も。」
「そして、各地の織田家臣の動きも。」
「すべて調べてください。」
「かしこまりました。」
男は頭を下げる。
「それと、もう一つ。」
玉が顔を上げた。
「何でしょう?」
「最近、妙な噂がございます。」
「噂?」
「はい。」
男は声を落とした。
「織田家の中で、信長様と信忠様が同じ場所にいることについて、危険だと考えている者がいるようでございます。」
玉の目が見開かれた。
「……誰が?」
「まだ分かりません。」
「誰かが、そう考えている?」
「はい。」
玉は黙り込んだ。
まさに。
自分がずっと考えていたことだった。
信長と信忠。
織田家の当主と、その嫡男。
二人が同時に危険に晒されることを避ける。
それは、当然の考えだ。
ならば。
その危険性を誰かが意識しているということは――。
「……偶然?」
玉は呟く。
それとも。
誰かが意図的に、その二人を同じ場所へ誘導しようとしているのか。
「まだ何も分かりません。」
玉は自分に言い聞かせるように呟いた。
「焦ってはいけない。」
だが。
胸の鼓動は、少しずつ速くなっていた。
その日の夕方。
玉は安寧丸を抱いていた。
小さな身体。
小さな寝息。
生まれたばかりの我が子。
「あなたのお父様とお祖父様を……。」
玉は安寧丸の顔を見つめる。
「絶対に守らなければ。」
そのためなら、何でもする。
たとえ相手が誰であろうと。
しかし。
玉には一つだけ、どうしても理解できないことがあった。
「もし本当に誰かが企んでいるなら……。」
動機は何なのか。
信長を殺すだけなら、まだ分かる。
だが。
なぜ信忠まで同じ場所にいる必要がある?
織田家を完全に揺るがすため?
それとも。
信忠を同時に失わせなければならない理由があるのか?
「……分からない。」
玉は目を閉じる。
歴史を知っている。
だが、歴史の理由までは知らない。
後世の記録に残っているのは結果だけ。
なぜその日、その場所に信長と信忠がいたのか。
誰が何を考えていたのか。
そこまでは分からない。
そして今。
自分はその答えを、歴史が起こる前に探している。
一方、安土。
「信長様。」
家臣が頭を下げる。
「何じゃ。」
「京より知らせがございます。」
「読め。」
信長は書状を受け取り、目を通す。
その内容を読み終えた信長は、僅かに眉を動かした。
「……京か。」
今の織田家にとって、京は以前とは意味が違う。
朝廷との関係も深くなっている。
信長自身に対する官位の話も出ている。
そして、天下の形が変わりつつある。
「近いうちに、一度京へ出る必要があるかもしれんな。」
その言葉を聞いた家臣が頭を下げる。
「はっ。」
信長は何気なくそう言った。
だが。
その言葉が玉の耳に届けば、どれほど心臓が跳ね上がるのか。
まだ誰も知らない。
夜。
玉のもとへ、再び報告が届いた。
「新たな動きが?」
「はい。」
玉は報告を受け取る。
そこには。
以前は別々だった複数の人物が、ある一点で繋がり始めていることが記されていた。
玉は何度も読み返す。
「……まさか。」
しかし。
まだ名前を口にすることはできない。
確証がない。
ここで間違えれば、無実の者を疑うことになる。
そして本当に黒幕だった場合。
こちらが動いたことを悟られれば、計画を変更されてしまう。
「もっと調べて。」
玉は静かに言った。
「今まで以上に。」
「はい。」
「絶対に、こちらの動きを悟られないように。」
「承知しました。」
男が消えていく。
玉は一人になった。
安寧丸が眠っている。
玉はその小さな手を握った。
「あと少し……。」
歴史の知識。
裏の者たちから届く情報。
そして、今この世界で実際に起きていること。
その三つを照らし合わせながら。
玉は必死に答えを探していた。
しかし。
まだ――。
「あの人」だと断定することはできなかった。
そして、時間だけが静かに過ぎていく。
本能寺まであと四十六日。




