第二百三十三話 「孫に夢中な天下人」
岐阜城。
安寧丸が生まれてから、数日が経っていた。
玉の体調も少しずつ落ち着き、城内にもようやく穏やかな空気が戻り始めている。
ただし――。
一人だけ、まったく帰る気配を見せない男がいた。
織田信長である。
「……父上。」
信忠が困ったように声を掛ける。
「何じゃ。」
「安土へは、いつお戻りになるおつもりで?」
信長は腕の中の安寧丸を見つめたまま答える。
「まだ決めておらぬ。」
「……。」
信忠は思わず天井を見上げた。
安土には政務が山ほどある。
しかも、関東には滝川一益を責任者として置いている。
だからといって、安土を長く空けてよいわけではない。
「父上、安土のこともございます。」
「分かっておる。」
「ならば……。」
「書状で指示を出せばよい。」
「しかし――」
「安土には他の者もおる。」
信忠が一瞬黙る。
そして苦笑した。
「……滝川殿は関東におりますが。」
「……。」
信長が黙った。
信忠がさらに続ける。
「関東のことを任せている滝川殿を、安土の政務に呼び戻すことはできませんよ。」
「分かっておる。」
「では、父上が戻られた方が……。」
「まだじゃ。」
「まだ?」
信長は安寧丸を見つめる。
「もう少し、この子を見てからじゃ。」
信忠は深いため息をついた。
完全に孫馬鹿になっている。
「……父上。」
「何じゃ。」
「天下人が、孫から離れられなくなっております。」
「何を言う。」
信長は真顔だった。
「孫が生まれたのだぞ。」
「それは分かります。」
「ならば、見るのは当然であろう。」
「……はい。」
信忠も笑ってしまう。
結局、自分も嬉しいのだから強くは言えなかった。
そして、その部屋にはもう三人いた。
玉。
濃姫。
そして明智光秀。
玉と濃姫は並んで座り、信長が安寧丸を抱いている姿を、微笑ましそうに眺めている。
信長は安寧丸の顔を覗き込む。
「よく寝ておる。」
小さな手が動く。
「おお。」
安寧丸が少し顔を動かす。
信長の顔がさらに緩む。
「起きるか?」
玉と濃姫は顔を見合わせた。
「ふふっ。」
「本当に嬉しそうですね。」
二人とも呆れながらも、笑顔だった。
玉にとっては、自分の子を信長がこれほど可愛がってくれていることが嬉しい。
濃姫にとっても、夫が孫を抱いて嬉しそうにしている姿は、なんとも微笑ましいものだった。
そして――。
その隣で、ただ一人。
憮然とした顔をしている男がいた。
明智光秀である。
「信長様。」
「何じゃ。」
「そろそろ私にも抱かせていただけませぬか。」
「まだじゃ。」
「……。」
光秀の眉が僅かに動く。
「私も、この子の祖父なのですが。」
「知っておる。」
「では、なぜ私には抱かせていただけぬので?」
「余が抱いておるからじゃ。」
「……。」
光秀は深いため息をついた。
「なるほど。」
「何じゃ、その言い方は。」
「いえ。」
光秀は安寧丸を見る。
「天下人ともあろうお方が、孫一人を抱いて離さぬとは思いませなんだ。」
信長が睨む。
「何か文句があるのか?」
「ございません。」
即答する。
「ただ……。」
光秀は安寧丸を見る。
「私の孫でもありますので、少しくらいは抱かせていただきたいものですな。」
「そのうちじゃ。」
「そのうち、そのうちと……。」
光秀は小さくぼやく。
玉が思わず笑った。
「お父様。」
「何だ?」
「信長様も、安寧丸を抱きたいのでしょう。」
「分かっております。」
光秀は答える。
「分かっておりますが……。」
そう言いながら、安寧丸を見る。
眠っている小さな顔。
小さな手。
光秀の表情が、自然と緩んだ。
「……可愛いものですな。」
その言葉に玉も微笑む。
濃姫も頷く。
信長だけは得意げだった。
「そうであろう。」
「信長様が得意げになることではありません。」
「何じゃと?」
光秀はそう言いながらも、もう一度安寧丸を見る。
抱くことはできない。
だが、見るだけでも嬉しい。
それだけで十分だと思えてしまう自分がいる。
実は。
光秀には密かに考えていたことがあった。
安寧丸の名前である。
玉に子ができたと知った時から、光秀も密かに名前を考えていた。
誰にも言わず。
自分の中だけで。
だが、信長が先に名前を決めた。
「……私も、実は名前を考えていたのですがな。」
光秀が呟く。
信長が顔を上げる。
「ほう。」
「どんな名じゃ?」
「それは秘密にしておきましょう。」
「なぜじゃ。」
「もう安寧丸という立派な名がございます。」
「ならば、最初から言えばよいではないか。」
「私にも祖父としての意地がございますので。」
光秀は苦笑する。
信長も笑った。
そして光秀は再び安寧丸を見る。
その目には、嬉しさが溢れていた。
玉はそんな二人を見ていた。
信長。
父・光秀。
どちらも安寧丸を心から可愛がっている。
自分が知っていた歴史なら。
こんな光景は決して存在しなかった。
父は別の道を歩み。
信長と敵対する未来すらあった。
だが今は違う。
同じ部屋で。
自分の子を見つめながら。
二人の祖父が、くだらないことで張り合っている。
玉は思わず微笑んだ。
「……幸せですね。」
濃姫が玉を見る。
「ええ。」
そして濃姫は優しく玉の頭を撫でた。
「あなたが頑張ったからですよ。」
「私が?」
「ええ。」
濃姫は微笑む。
「この子を無事に産んだ。」
「それは織田家にとって、どんな戦功よりも大きなことです。」
玉の目が少し潤む。
「ありがとうございます。」
濃姫はもう一度、優しく玉の髪を撫でる。
「本当によく頑張りましたね。」
玉は小さく頷いた。
信長は相変わらず安寧丸を抱いている。
光秀は相変わらず抱かせてもらえない。
それでも。
光秀は不満そうな顔をしながら、安寧丸を見ていた。
そして、ふっと笑う。
「……元気に育て。」
その声は小さかった。
誰にも聞こえないほどの声。
だが、その言葉には祖父としての願いが詰まっていた。
安寧丸は眠ったまま、小さな手を僅かに動かした。
「おお。」
信長が嬉しそうに声を上げる。
「今、余に応えたぞ。」
「信長様。」
光秀が呆れた顔をする。
「ただ動いただけにございます。」
「何を言う。余には分かる。」
「はいはい。」
「その言い方は何じゃ。」
玉と濃姫が顔を見合わせる。
そして二人とも笑った。
岐阜城の一室。
天下を動かす男。
その嫡男。
母となった玉。
濃姫。
そして、孫を抱けずに少し不満そうな祖父。
戦国の世とは思えないほど、穏やかな時間が流れていた。
安土へ戻るはずの信長は、まだ動かない。
関東にいる滝川一益には、しばらく安土へ戻る理由もない。
天下人は今――。
ただ一人の孫に夢中になっていた。
本能寺まで後八十五日




