第二百三十二話 「安寧丸、誕生」
岐阜城の奥。
その日は、朝から普段とは違う慌ただしさに包まれていた。
女中たちが忙しく行き交い、産婆たちも玉のいる部屋を出たり入ったりしている。
「湯を!」
「こちらへ!」
「もう少しですぞ、奥方様!」
その声が、廊下まで聞こえてくる。
そして、その廊下を落ち着きなく歩き回っている男が一人。
織田信忠であった。
「……まだか。」
また歩く。
「まだなのか……。」
そして、また戻ってくる。
さすがに見かねた家臣が声を掛けようとした、その時。
「信忠。」
低い声が響いた。
振り返る。
そこには織田信長がいた。
「父上。」
「少し落ち着け。」
「しかし……。」
信忠は玉のいる部屋を見る。
「玉が……。」
「案ずるな。」
信長はそう言った。
だが。
その信長自身も、落ち着いてはいなかった。
腕を組みながら廊下に立っているものの、足元を見ると、貧乏ゆすりをしている。
信忠がそれに気づく。
「父上も落ち着いておられぬではありませんか。」
「……。」
信長は一瞬黙る。
そして、
「余は落ち着いておる。」
「その足は?」
信忠が指摘する。
信長は自分の足を見る。
確かに、細かく揺れている。
「……これは癖じゃ。」
「そういうことにしておきましょう。」
「うるさい。」
二人とも、笑う余裕などほとんどなかった。
ただ、待つ。
待つしかない。
玉と、生まれてくる子を。
どれほど時間が経ったのか。
信忠には分からなかった。
長い。
あまりにも長く感じる。
「玉……。」
信忠は小さく呟いた。
信長も黙って奥を見つめている。
天下を狙い、幾多の戦場を駆け抜けてきた男。
その信長でさえ、この瞬間だけは何もできない。
刀も。
兵も。
策も。
この場では何の役にも立たない。
ただ待つだけ。
そして――。
その時だった。
奥から声が響いた。
「おぎゃあ……!」
一瞬。
空気が止まった。
そして。
もう一度。
「おぎゃあ――!」
赤子の泣き声が、岐阜城の奥まで響き渡った。
信忠の目が大きく開く。
信長も顔を上げる。
「……生まれた。」
信忠が呟いた。
その直後。
襖が開く。
産婆が深々と頭を下げた。
「お世継ぎ様のご誕生にございます!」
「おめでとうござりまする!」
信忠の顔が、一瞬で満面の笑みに変わった。
「そうか……!」
「生まれたのか!」
「玉は!?」
「奥方様もご無事にございます。」
その言葉を聞いた瞬間。
信忠は大きく息を吐いた。
「よかった……。」
その横で、信長も立ち上がった。
そして、短く一言。
「でかした。」
それだけだった。
しかし、その声には明らかな喜びが滲んでいた。
信忠は笑っている。
これほど嬉しいことはない。
自分の子が生まれた。
玉も無事だった。
それだけで十分だった。
しばらくして。
ようやく二人は、玉と赤子との対面を許された。
信忠が部屋へ入る。
そこには、疲れながらも穏やかな表情を浮かべた玉がいた。
そして、その腕の中には小さな赤子。
信忠は、ゆっくりと近づく。
「玉……。」
「信忠様。」
玉は微笑んだ。
「無事に生まれました。」
「ああ。」
信忠は赤子を見る。
小さい。
あまりにも小さい。
しかし、その小さな身体からは、確かな生命の力を感じる。
「……俺たちの子か。」
「はい。」
玉の目には涙が浮かんでいた。
信忠は赤子の顔を見つめる。
「ありがとう、玉。」
「こちらこそ……。」
玉は微笑んだ。
「無事に生まれてくれて、本当によかった。」
そこへ信長も入ってくる。
信長は赤子を見ると、しばらく黙っていた。
天下を見据える男が、今は一人の祖父として、小さな命を見つめている。
「……ほう。」
信長は赤子の顔を覗き込む。
赤子は小さく手を動かした。
信長の口元が緩む。
「元気そうではないか。」
「はい。」
信忠が答える。
信長はしばらく赤子を眺めた。
そして、信忠へ言う。
「名は決めてある。」
信忠が振り返る。
「もう決めておられたのですか?」
「ああ。」
信長は頷いた。
「幼名は――」
一拍置いて。
「安寧丸。」
「安寧丸……。」
信忠が、その名を口にする。
信長は静かに続けた。
「これからの世が、安寧であることを願ってな。」
「戦ばかりの世ではない。」
「人が安心して暮らせる世。」
「そのような時代を、この子が生きられるように。」
信忠は深く頷いた。
「良い名です。」
玉も、赤子を見つめながら微笑む。
「安寧丸……。」
その名を聞いた赤子が、まるで返事をするかのように小さく声を上げた。
「おぎゃ……。」
三人の顔に笑みが浮かぶ。
信長は小さな孫を見ながら、静かに呟いた。
「安寧丸。」
「そなたが大人になる頃には、日の本がどうなっているか。」
「それは余にも分からぬ。」
しかし。
信長の目には、強い決意が宿っていた。
「だが。」
「そなたが生きる世を、今より良い世にしてやろう。」
玉はその言葉を聞きながら、安寧丸を胸に抱いた。
自分が知っている歴史とは、もう違う。
この子は、本来なら存在しなかった命。
そして、この子が生きる未来もまた、自分の知る歴史とは違う。
玉は安寧丸の小さな手を見つめる。
「安寧丸……。」
その名に込められた願い。
安らかな世。
穏やかな未来。
戦乱に怯えなくてよい世。
玉もまた、同じ願いを抱いた。
「この子が、安らかに生きられる世になりますように。」
信忠は玉の肩へ手を置いた。
信長は二人と孫を静かに見つめている。
岐阜城の外では、今日も戦国の世が動いている。
だが、この部屋だけは違った。
そこにはただ、新しい命の誕生を喜ぶ家族がいた。
そして――。
織田家に、新たな命が加わった。
その名は。
安寧丸。
天下の安寧を願って付けられた、小さな男児の名であった。
本能寺まで後八十七日




