第二百三十一話 「天下の形」
関東が織田の秩序の中へ組み込まれ始めてから、さらに時が流れていた。
佐竹。
里見。
宇都宮。
北条。
かつてならば互いに警戒し、争うこともあった勢力が、今では織田を軸として協力する関係を築きつつある。
しかも、ただ戦を止めただけではない。
街道が整えられ、港が活用され、商人の往来が増えた。
領内での無用な争いが減れば、農民たちは田畑へ戻る。
商人は安心して荷を運ぶ。
職人は仕事を求めて集まってくる。
関東全体が、少しずつ変わり始めていた。
その変化は、当然ながら関東だけに留まらなかった。
安土城。
信長のもとには、全国各地から次々と書状が届いていた。
「またか。」
信長が一通を開く。
「はい。」
側近が答える。
「今度は西国の国人衆からでございます。」
信長は書状を読む。
そこには、織田との敵対を避け、交易を行いたいという申し出が記されていた。
「戦う前に、こちらへ来るか。」
信長は笑った。
「賢いではないか。」
別の書状も届けられる。
今度は、織田に臣従する意向を示す者。
さらに別の書状には、織田と直接敵対することは避け、一定の自治を保ちながら協力関係を築きたいという申し出まであった。
信長は一つ一つ目を通していく。
「関東がまとまったことで、他国も動き始めたようですな。」
家臣が言う。
「当然じゃ。」
信長は答える。
「誰だって、隣で大きな勢力が生まれれば、自分の身の振り方を考える。」
「それが戦国というものじゃ。」
そして信長は、西へ視線を向けた。
「ただし……。」
「毛利だけは、まだ動かぬか。」
「はい。」
毛利。
中国地方に大きな勢力を持つ家。
今のところ、織田に対して明確な臣従を示してはいない。
信長は地図を見つめる。
「毛利以外が動き始めているのなら、いずれ毛利も考えざるを得なくなる。」
「戦になるか。」
家臣が尋ねる。
信長は首を横に振った。
「まだ分からぬ。」
「戦わずに済むなら、それに越したことはない。」
かつての信長ならば、力で押し通す場面も多かった。
しかし今の信長は違う。
戦わずして従わせられるのであれば、それを選ぶ。
それが結果として日の本全体の力を高めるからだ。
そして、もう一つ。
安土だけではなく、京でも大きな変化が起きていた。
朝廷。
そこでも、織田信長の今後について話し合われることが増えていた。
「関東がこれほどまでに織田のもとへまとまるとは……。」
公家の一人が呟く。
「西でも織田への臣従、あるいは協力を申し出る者が増えております。」
「ならば、いよいよ……。」
その言葉の先に出たのは、一つの名だった。
「征夷大将軍。」
室内が静かになる。
幕府を開くということ。
それは、単なる武家の最高位という意味ではない。
日の本の武家を束ねる大義そのものになる。
「信長卿に征夷大将軍の位を……。」
「議題として上げるべきではないか。」
しかし、別の公家が慎重に口を開く。
「問題は、信長卿自身が望まれるかどうかです。」
その言葉に、皆が黙る。
信長はこれまで、既存の権威に必ずしも従ってきたわけではない。
朝廷との関係も、従来の武家政権とも違う。
そもそも信長が作ろうとしている天下は、過去の幕府と同じものなのか。
それすら、まだ誰にも分からなかった。
それでも。
「征夷大将軍」という言葉が、朝廷内で現実的な議題として上がり始めた。
それほどまでに、織田信長の勢力は巨大になっていた。
その頃、岐阜。
玉は、ゆっくりと庭を歩いていた。
妊娠ヶ月。
お腹はかなり大きくなっている。
以前よりも身体が重くなり、少し歩くだけでも疲れやすい。
それでも、玉の表情には穏やかさがあった。
「もう10ヶ月か……。」
出産間近である。
玉はお腹に手を添える。
胎動もはっきりしている。
時折、強く動くこともある。
「元気ね。」
玉は微笑んだ。
母になる。
その実感は、日に日に強くなっている。
以前は、自分が母親になるということそのものに戸惑いがあった。
だが今は違う。
この子が生まれてくる日を楽しみにしている。
そして、その未来を守りたいと思っている。
信忠と、この子。
二人を守る。
それが玉の中で、何よりも大きな願いになっていた。
信忠が戻ってくる。
「玉。」
「お帰りなさいませ。」
「今日はどうだった?」
「元気ですよ。」
玉が微笑む。
「この子が先ほどから随分と動いています。」
信忠は玉の隣へ座る。
そして、お腹へそっと手を添える。
しばらくすると。
ぽこん。
「……今のか?」
「はい。」
信忠の顔に笑みが浮かぶ。
「元気な子だ。」
「誰に似たのでしょうね。」
「父上に似れば、もっと大変になるぞ。」
「まあ。」
玉が笑う。
二人の間に穏やかな時間が流れる。
しかし、玉の胸の奥には、今も一つの思いがある。
本能寺。
それが本当に起きるのか。
玉にはもう分からない。
歴史は変わりすぎた。
信長の天下取りは、玉が知っている歴史とは全く違う形になっている。
関東は織田のもとでまとまりつつある。
西国でも臣従や協力を申し出る者が増えている。
朝廷でさえ、信長に征夷大将軍の位を与えることを議題にし始めた。
ならば。
本能寺という出来事そのものが消えている可能性すらある。
だが、玉は油断しなかった。
「何が起きても……。」
玉は、お腹を撫でる。
「あなたを守る。」
そして信忠を見る。
「信忠様も。」
信忠は玉の言葉の意味までは分からない。
それでも、玉の手を優しく握った。
「俺も、二人を守る。」
その言葉に、玉は静かに微笑んだ。
歴史は変わった。
未来は見えなくなった。
だからこそ。
これから訪れる一日一日を、大切に生きる。
それが今の玉にできることだった。
安土では、さらに新たな書状が届く。
朝廷からのものだった。
信長はそれを開く。
そこには、今後の朝廷と織田家の関係についての話し合いを求める旨が記されていた。
そして、その中には――。
「征夷大将軍の件も……。」
信長は小さく呟いた。
口元に笑みが浮かぶ。
「天下とは、面白いものじゃ。」
信長は書状を畳んだ。
まだ、答えは出さない。
自分がどのような形で日の本を治めるのか。
それは信長自身にも、まだ完全には決まっていなかった。
ただ一つ確かなことがある。
織田信長の天下は、もはや一地方の戦国大名が目指す天下ではない。
日の本そのものの未来を左右するところまで来ていた。
そしてその変化は、歴史を知る玉にとってさえ、もはや予測不能な領域へと入っていた。
本能寺まであと九十五日。




