第二百二十九話 「北条の答え」
安土城。
北条からの返答が届いたのは、夕刻のことであった。
信長は届けられた書状を開き、静かに目を通していく。
そこには、北条として織田との関係を拒むものではないこと。
そして、関東の安定と領民の安寧を考えるならば、織田との協力体制を築くことも必要であるとの考えが記されていた。
信長は最後まで読み終えると、書状を畳んだ。
「……北条もようやく、こちらを見る気になったか。」
家臣が頭を下げる。
「いかがなされますか?」
信長はしばらく考えた。
そして、意外な言葉を口にした。
「信忠を行かせる。」
「……信忠様を?」
家臣たちが驚く。
信長は頷いた。
「北条には、織田が何を考えているのかを、きちんと理解してもらわねばならぬ。」
「ただ臣従を求めるだけではない。」
「余が目指しているのは、北条一家のための天下ではない。」
「日の本全体をどうするかじゃ。」
そして、信忠へ使者を出すよう命じた。
数日後。
小田原城。
城内に緊張が走っていた。
「織田信忠様が来られる?」
北条家当主、北条氏政は思わず聞き返した。
「はい。」
使者が答える。
「織田信長公の名代として、信忠様自らが小田原へ参られるとのことです。」
氏政は黙った。
織田の嫡男。
しかも、信長がわざわざ自分の後継者を寄越してくる。
これは単なる挨拶ではない。
重要な話をするつもりなのだろう。
「迎えの準備をせよ。」
「決して粗相のないようにな。」
やがて。
小田原城へ織田信忠が入った。
供の兵はいる。
しかし、威圧するような大軍ではない。
信忠は堂々としながらも、敵地へ乗り込んできたという態度は一切見せなかった。
そして北条氏政との対面。
氏政の左右には、北条氏照、松田憲秀、板部岡江雪斎ら重臣たちが並ぶ。
信忠が頭を下げる。
「北条氏政殿。」
「織田信長の名代として参りました。」
氏政も礼を返す。
「わざわざご足労いただき、かたじけない。」
形式的な挨拶が終わる。
そして、氏政が切り出した。
「織田殿は、北条に何を望まれているのでしょうか。」
信忠は静かに氏政を見る。
「父が望んでいることは、北条を潰すことではございませぬ。」
「では?」
信忠は一呼吸置いた。
「日の本を、一つにすることです。」
氏政が眉を動かす。
「日の本を……。」
「はい。」
信忠は続ける。
「今、我らは狭い日の本の中で争っております。」
「北条と佐竹。」
「佐竹とその周辺。」
「各地で国人が争い、領地を奪い合う。」
「しかし、その間にも海の向こうでは別の動きが進んでおります。」
重臣たちの表情が変わる。
信忠はさらに続けた。
「南蛮です。」
松田憲秀が口を開く。
「南蛮との交易がございますな。」
「それだけではありません。」
信忠の声が低くなる。
「なぜ、南蛮人は布教と称して日の本へ入り、同時に交易を行っていると思われますか?」
誰も答えない。
「信仰だけが目的だと?」
信忠は首を横に振った。
「父は、そう考えておりませぬ。」
「南蛮人は日の本の地形を見ております。」
「港を調べ、街道を知り、国々の勢力を把握している。」
「そして、我らがどれほどの兵力を持っているのかも探っている。」
北条氏照が眉をひそめる。
「それは……確かな話なのか?」
「はい。」
信忠は即答した。
「そして、もっと恐ろしい事実がございます。」
広間の空気が変わる。
「すでに長崎から、日の本の子どもたちが奴隷として海外へ売られている。」
その瞬間。
誰も言葉を発せなくなった。
松田憲秀の顔から表情が消える。
板部岡江雪斎も、目を見開いた。
氏照は思わず信忠を見つめた。
そして氏政も。
言葉を失っていた。
信忠は淡々と続ける。
「これは確かな情報です。」
「我らは、日の本の中で戦を続けている。」
「その間に、南蛮は日の本そのものを調べている。」
「もし日の本が一つにならず、各地で争い続けていれば……。」
信忠は地図へ目を向ける。
「南蛮が圧倒的な軍事力を持って攻めてきた時、誰が日の本を守るのでしょうか。」
「北条だけでございますか?」
氏政は答えられない。
「佐竹だけでございますか?」
答えられない。
「織田だけでもありません。」
信忠は言い切った。
「だからこそ父は、日の本全体を考えております。」
「北条を従わせたいからではない。」
「佐竹を従わせたいからでもない。」
「日の本そのものを守るために、今から一つの国として力を蓄えなければならないと考えているのです。」
広間は静まり返っていた。
氏政は俯いた。
これまで北条は、北条のことを考えてきた。
領地を守る。
家臣を守る。
関東で勢力を伸ばす。
それが当主として当然だと思っていた。
だが。
織田は違った。
信長は、さらに先を見ている。
関東の争い。
日の本の統一。
その先にある南蛮の脅威。
氏政は、初めてその差を思い知らされた。
「……我らは。」
氏政がようやく口を開く。
「北条のことばかりを考えていた。」
信忠は黙って聞いている。
「しかし、織田は日の本を見ている。」
「その差が……これほど大きいとは。」
松田憲秀も深く息を吐いた。
「殿。」
「分かっている。」
氏政は信忠を見る。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「北条は、織田と協力いたします。」
「関東の安定だけではない。」
「日の本を守るために。」
信忠は頷いた。
「ありがとうございます。」
「ですが、北条に求めるのは服従だけではありません。」
「力を貸していただきたい。」
「北条の兵も、知恵も、領地も。」
「全て日の本を守る力になる。」
氏政は立ち上がった。
「承知した。」
「北条は、織田と共に歩みます。」
こうして。
北条と織田の間には、単なる臣従関係を越えた協力体制が築かれることになった。
関東最大級の勢力である北条が、織田の描く新たな日の本の秩序へ加わったのである。
そして信忠は、最後に小田原の地図を見つめた。
佐竹。
里見。
宇都宮。
北条。
関東は、かつてないほど大きくまとまり始めていた。
しかし。
その先には、まだ上杉など、織田の秩序へ加わっていない勢力も残っている。
信忠は思う。
これからが、本当の天下統一なのだと。
本能寺まであと百十三日。




