第二百二十七話 「北条からの使者」
小田原城。
あれから十日。
関東の情勢は、さらに大きく動き始めていた。
佐竹を中心とした関東の新たな秩序。
里見による海運と交易。
宇都宮の臣従。
そして、その全体を見守る織田家。
戦を繰り返すのではなく、話し合いによって勢力を広げていく織田のやり方は、関東の国人衆や商人たちの間にも広がっていた。
その噂は、当然ながら小田原にも届いている。
北条家当主は、連日届けられる報告に頭を悩ませていた。
「佐竹領では、街道の安全が良くなったとのこと。」
「里見の港では、織田の船が出入りすることで交易量が増えております。」
「宇都宮も織田との関係を持ったことで、商人の往来が増えたようにございます。」
「さらに、関東各地の国人衆から佐竹へ問い合わせが相次いでおります。」
報告を聞きながら、当主は目を閉じた。
戦で領地を奪う。
それなら北条も長年やってきた。
だが、織田は違う。
戦わずして勢力を広げている。
そして、その土地を豊かにすることで、周囲の者たちに「織田と組んだ方が得だ」と思わせている。
「……恐ろしいな。」
当主がぽつりと呟いた。
重臣たちも頷く。
「はい。」
「敵を倒すのではなく、敵そのものを減らしている。」
「しかも、その者たちの領地を奪うのではなく、これまで通り統治を任せている。」
「だからこそ、反発も少ないのでしょう。」
広間に沈黙が落ちる。
北条にとって最も厄介なのは、織田の軍事力だけではなかった。
織田と組むことによる利益。
それが関東の武士たちに見え始めていることだった。
「殿。」
一人の重臣が口を開いた。
「そろそろ、こちらから織田の考えを探るべきではありませぬか。」
当主が顔を上げる。
「使者を出すのか。」
「はい。」
「しかし、臣従するわけではない。」
「まずは織田が北条をどう見ているのか、それを知るべきかと。」
別の重臣も続けた。
「このまま何もせずにいれば、関東で北条だけが孤立する可能性がございます。」
その言葉に、当主は地図を見る。
佐竹。
里見。
宇都宮。
そして小田原。
「……分かった。」
しばらく考えた後、当主は決断した。
「使者を出せ。」
「織田へ、こちらから話を聞きたいと伝えよ。」
数日後。
佐竹領。
滝川一益のもとへ、一人の使者が訪れた。
「北条家より参りました。」
一益は使者を見つめる。
「北条から?」
「はい。」
広間にいた佐竹義重も驚いた表情を見せた。
「何用だ。」
使者は深々と頭を下げる。
「北条家当主より、佐竹殿ならびに織田家滝川様へ申し上げたい儀がございます。」
「申せ。」
「北条は、現在の関東情勢について、織田家と話し合うことを望んでおります。」
一益は黙って使者を見た。
「具体的には?」
「北条が今後どのような立場を取るべきなのか。」
「織田家が関東に何を望んでいるのか。」
「それを伺いたいとのことでございます。」
佐竹の家臣たちの間に、小さなどよめきが起こった。
北条が、自ら織田へ話を求めてきた。
これは大きな変化だった。
一益はしばらく考えた後、頷いた。
「分かった。」
「安土へ伝える。」
そして使者へ視線を向ける。
「ただし、北条殿にも伝えておけ。」
「織田は、戦をするためだけに関東へ来たのではない。」
「領地を守りたいというのであれば、その意思を聞く。」
「民を守りたいというのであれば、それも聞こう。」
「だが、関東を再び戦乱へ戻すつもりはない。」
使者は深々と頭を下げた。
「必ずや、お伝えいたします。」
その日の夜。
一益は安土へ書状をしたためた。
北条から使者が来たこと。
そして、北条が織田の考えを聞きたいと申し出たこと。
最後に一益はこう記した。
『北条は未だ臣従を口にはしておりませぬ。』
『されど、こちらへ使者を寄越したこと自体、大きな変化と考えます。』
安土城。
信長は一益からの書状を読み終えると、静かに笑った。
「……北条から来たか。」
側近が尋ねる。
「いかがなされますか。」
信長は関東の地図を広げる。
「こちらから呼びつける必要はない。」
「来ると言うなら、話を聞いてやれ。」
そして小田原を指で叩く。
「ただし。」
「条件を決めるのはこちらじゃ。」
「北条が何を望むのか。」
「そして、何を差し出せるのか。」
信長の口元に笑みが浮かぶ。
「それを聞けばよい。」
その頃、岐阜。
玉は縁側に座り、膨らんだお腹をそっと撫でていた。
妊娠八ヶ月。
胎動を感じることも、以前よりずっと増えた。
「今日も元気だな。」
隣に座る信忠が微笑む。
「はい。」
玉も嬉しそうに笑う。
「この子が生まれてきたら、どんな子になるのでしょうね。」
「元気なら、それでいい。」
信忠は玉の手を握った。
「そして、この子が生きる世を、今より良いものにしたい。」
玉はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
自分が知っていた歴史とは、もう大きく違っている。
信長は関東へ進み。
父・光秀も生きている。
佐竹も里見も織田と結びつき、宇都宮までも従った。
そして今、北条まで動き始めた。
ならば。
未来は変わっているのかもしれない。
玉はお腹に手を添えた。
「……この子が生まれる頃には、もっと平和になっているといいですね。」
「そうしてみせる。」
信忠は迷いなく答えた。
玉は静かに微笑む。
しかし、その胸の奥にはまだ、誰にも話せない不安が残っている。
自分だけが知っている、遠い未来。
けれど今は、それを考えすぎない。
目の前にいる信忠。
帰ってきた父・光秀。
そして、自分のお腹の中で育っている小さな命。
玉はその全てを守ることだけを考えることにした。
関東では北条が、織田との対話へ踏み出した。
安土では信長が、その使者を待っている。
そして岐阜では、一人の母が生まれてくる我が子を静かに待っている。
戦国の世は、少しずつ。
しかし確実に、史実とは違う方向へ進み始めていた。
本能寺まであと百四十一日。




