第二百二十六話 「北条へ届く噂」
小田原城。
北条家の評定が終わった翌朝。
城下では、いつものように商人たちが行き交っていた。
しかし、その口から出る話は以前とは変わっていた。
「佐竹へ行ってきたが、あちらは随分と変わったぞ。」
「何がだ?」
「織田の船が入るようになってな。港が賑わっている。」
「それだけではない。」
別の商人が口を挟む。
「宇都宮も織田方に入ったそうだ。」
「戦になったのか?」
「いや。」
「使者同士の話し合いで決まったらしい。」
「戦わずに?」
「そうだ。」
商人は笑った。
「しかも、織田に従ったからといって領地を取り上げられたわけではない。」
「佐竹が関東総奉行となり、現地の者が政を行う。」
「織田は軍と交易を支える。」
「……変わったやり方だな。」
「だからこそ、商人にはありがたい。」
商人は声を落とした。
「戦が減る。」
「道が安全になる。」
「港が開く。」
「物が売れる。」
「それだけで我らには十分なのだ。」
その話は、瞬く間に城下へ広がっていった。
そして。
当然ながら、その噂は北条家の耳にも入る。
小田原城。
報告を受けた北条家当主は、しばらく黙っていた。
「……民が、織田を歓迎しているのか。」
「少なくとも、商人たちはそう申しております。」
「農民は?」
「年貢が軽くなった土地では、以前より暮らしやすくなったという話も。」
当主は眉を寄せる。
戦国大名にとって、これは厄介な話だった。
敵の兵を倒すだけなら簡単だ。
城を落とせばよい。
だが。
民の心を掴まれれば、戦う理由そのものが薄れていく。
「織田は……戦をしないことで戦をしているのか。」
誰かが呟いた。
誰も答えなかった。
その頃、佐竹領。
滝川一益は新たな書状を受け取っていた。
差出人は、関東各地の国人衆。
内容はどれも似ている。
「織田家の御意向を伺いたい。」
「佐竹殿との関係をどうすべきか。」
「我らも関東総奉行の政に加わることは可能か。」
一益は書状を並べていく。
「……向こうから来始めたか。」
側近が頷く。
「はい。」
「こちらから使者を送る前に、向こうから話を聞きたいと。」
一益は笑った。
「これが光秀殿の言っていたことか。」
武力で押し潰すのではない。
秩序を作る。
そして、その秩序に加わった方が得だと周囲に思わせる。
一益は一枚の書状を手に取った。
「返事を出せ。」
「まずは話を聞く。」
「戦う必要などない。」
そして岐阜。
光秀は久しぶりに穏やかな朝を迎えていた。
庭先を歩きながら、ふと空を見上げる。
関東にいた頃とは違う。
今は玉のすぐそばにいる。
「父上。」
振り返ると、玉が立っていた。
「どうした?」
「お茶をお持ちしました。」
玉は微笑む。
光秀は娘の隣に腰を下ろした。
「関東はどうなっているのですか?」
「滝川殿が上手くやっておる。」
「佐竹殿も里見殿も、それぞれの役目を理解しておる。」
「これからは、戦よりも政が重要になるだろう。」
玉は静かに頷いた。
「そうですか……。」
その時。
玉のお腹が小さく動いた。
「……あ。」
玉が驚いたようにお腹へ手を当てる。
光秀も思わず目を細める。
「今、動いたのか?」
「はい。」
玉は嬉しそうに笑った。
「父上にも分かりますか?」
光秀が恐る恐る手を添える。
しばらく待つ。
そして。
小さな動き。
「……!」
光秀の顔が変わった。
「おお……。」
思わず笑みがこぼれる。
「この子は、元気だな。」
「はい。」
玉も笑う。
その姿を見ながら、光秀は改めて思った。
戦のない世にしたい。
自分ができることは限られている。
それでも。
この子が生まれる未来を、少しでも良いものにしたい。
それだけは強く思っていた。
玉は父の横顔を見つめる。
自分が知っている歴史では、父には悲劇的な未来が待っていた。
しかし。
今の父は笑っている。
自分のお腹にいる孫の胎動を喜んでいる。
そして、織田家も関東も、自分の知っている歴史とは全く違う道を歩んでいる。
玉はそっとお腹を撫でた。
「……きっと大丈夫。」
誰に言うでもなく、そう呟く。
その頃、安土では信長のもとへ一通の報告が届いていた。
「関東の国人衆から、次々と問い合わせが来ております。」
信長は報告を聞くと、満足そうに笑った。
「そうか。」
「ならば、こちらから急ぐ必要はない。」
「向こうから門を叩いてくるのを待て。」
信長は地図へ目を落とす。
その視線の先には、小田原があった。
「北条も、いずれ決めねばならぬ。」
だが。
信長はまだ知らない。
北条がどのような決断をするのか。
そして、その決断が関東だけではなく、天下全体を大きく動かすことになることを。
本能寺まであと百四十日。




