第二百二十五話 「北条の決断」
小田原城。
夜も更けた評定の間には、北条家の重臣たちが集まっていた。
中央に広げられたのは、関東一円を記した大きな地図。
しかし、その地図を取り囲む者たちの表情は重い。
以前とは、関東の勢力図そのものが変わり始めていた。
佐竹。
里見。
宇都宮。
そして、今後さらに加わる可能性のある勢力。
その背後には、織田がいる。
北条家当主は、黙って地図を見つめていた。
「……小田が落ちた。」
重臣の一人が口を開く。
「されど、それだけではございませぬ。」
別の重臣が続けた。
「宇都宮は使者を受け入れ、佐竹へ従いました。」
「里見は織田の大船を受け入れ、港を開放したことで交易が盛んになっております。」
「さらに佐竹には関東総奉行という役目が与えられ、織田からは滝川一益まで派遣されました。」
その名が出た瞬間、広間の空気が重くなる。
滝川一益。
織田家の重臣。
それが関東にいる。
つまり、織田は本気で関東を見ている。
「関東総奉行……。」
当主が低く呟いた。
「新しい役目を作ったということか。」
「はい。」
「かつて関東をまとめた関東管領という名はある。」
「しかし、今や実権はございませぬ。」
「そこで織田は、新しい仕組みを作った。」
重臣が地図を指す。
「佐竹が陸をまとめる。」
「里見が海を担う。」
「その上に滝川一益が織田方の責任者として置かれている。」
「……なるほど。」
当主はしばらく黙った。
そして、ゆっくりと言った。
「織田は関東を直接奪おうとしているのではない。」
家臣たちが顔を上げる。
「こちらに選ばせているのだ。」
「戦うか。」
「従うか。」
「戦えば、力で潰される。」
「従えば、領地を残され、交易を与えられ、民を豊かにする。」
一人の重臣が苦々しく呟く。
「実に厄介なやり方にございます。」
「敵を滅ぼすよりも……。」
別の重臣が続ける。
「敵が自ら門を開けるよう仕向けている。」
誰も否定しなかった。
実際にそうなっている。
小田との戦では血が流れた。
だが、その後に織田が行ったことは、次々と戦を仕掛けることではなかった。
使者を送り、話し合い、条件を示す。
そして相手が受け入れれば、戦わずに関係を結ぶ。
さらに、その土地を豊かにする。
商人たちはそれを敏感に感じ取っていた。
「里見の港は、以前とは比べものにならぬほど活気づいているそうです。」
「佐竹領でも商人が増えております。」
「宇都宮も、織田との関係を持つことで今後の交易を期待しているとか。」
報告を聞いた当主は、拳を握る。
北条は戦って領地を広げてきた。
それは北条の誇りでもあった。
だが、織田は別の方法で領地を広げている。
戦わずに味方を増やしている。
そして、その味方が豊かになればなるほど、周囲の国人たちは織田を恐れるよりも、魅力を感じ始める。
「では……。」
若い家臣が恐る恐る口を開いた。
「我らも織田へ臣従すべきなのでしょうか。」
その言葉に、別の重臣が声を荒らげた。
「北条が佐竹に頭を下げるというのか!」
「北条が織田の旗下に入るなど、先祖に何と申し開きをする!」
「しかし、このままでは孤立するぞ!」
「黙れ!」
声が飛び交う。
北条の誇り。
家臣たちの誇り。
領地。
領民。
そして北条家そのものの存続。
全てが一つの天秤に乗っている。
当主は静かに手を上げた。
「騒ぐな。」
広間が静まった。
「まだ織田は我らへ使者を送ってきておらぬ。」
「ならば、こちらから動く必要もない。」
しかし、その言葉には迷いがあった。
織田が使者を送ってくる。
その時には、こちらが選択を迫られる。
その未来だけは、誰にも分かっていた。
「殿。」
一人の重臣が進み出る。
「何だ。」
「織田が次に何をするのか。」
「それを確かめるべきではございませぬか。」
「どういう意味だ?」
重臣は地図の上を指でなぞる。
佐竹。
宇都宮。
里見。
そして小田原。
「織田が関東を一つにまとめるつもりならば……。」
指が小田原で止まった。
「次に目を向けるのは、我らではありませぬか。」
沈黙。
誰も口を開かなかった。
だが、全員が同じことを考えていた。
北条。
それは関東最大級の勢力。
佐竹を中心に関東をまとめるなら、北条だけが取り残されることになる。
当主は小田原の町を思い浮かべた。
民がいる。
田畑がある。
商人がいる。
家臣たちもいる。
北条家を守るために戦うことはできる。
だが。
戦えば、民も巻き込まれる。
織田がこれまで見せてきた統治が本当に噂通りならば、戦うことだけが北条を守る道なのか。
当主自身にも答えは出せなかった。
「……まだ決めぬ。」
静かな声だった。
「織田が何を望むのか。」
「それを見極める。」
「そして、北条として最も良い道を選ぶ。」
重臣たちは一斉に頭を下げた。
北条の決断は、まだ先だった。
しかし。
関東の時計は、確実に動いていた。
その頃、岐阜。
明智家では、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
関東から帰還した光秀は、玉の姿を見て安堵していた。
妊娠六ヶ月。
大きくなったお腹。
そして、時折感じる胎動。
玉は生まれてくる我が子を愛おしそうに撫でている。
「今日も動いたのか?」
光秀が尋ねる。
「はい。」
玉は微笑む。
「とても元気です。」
光秀は嬉しそうに笑った。
「それならば何よりだ。」
光秀にとって今一番大切なのは、娘と、生まれてくる孫だった。
関東での仕事も一区切りついた。
これからは岐阜で家族と過ごせる。
それが何より嬉しかった。
玉もまた、父が帰ってきたことに心から安堵していた。
だが。
玉の胸の奥には、誰にも話せない思いが残っている。
前世で知っていた歴史。
本能寺の変。
そして、父・光秀。
しかし、今の世界はあまりにも違う。
信長は関東へ進出している。
佐竹は織田と結びついた。
里見は織田の海運を担っている。
宇都宮も従った。
織田の統治そのものが、玉の知る歴史とは違う方向へ進んでいる。
そして何より。
父はまだ、自分が知る未来とは全く違う場所にいる。
玉はそっとお腹に手を当てる。
「……この子を、無事に産む。」
今はそれだけを考えよう。
未来のことを考えすぎてはいけない。
本能寺という言葉が頭をよぎっても、今は目の前の家族を大切にする。
それが玉の選んだ道だった。
窓の外には、静かな岐阜の夜が広がっていた。
そしてその同じ夜。
小田原では北条が悩み。
関東では新たな秩序が生まれ。
安土では信長が次の一手を考えている。
誰も知らない。
この世界が、史実とは全く違う未来へ進み始めていることを。
ただ一人。
その違いを知る玉だけが、静かに時の流れを見つめていた。
本能寺まであと百五十三日。




