第二百十一話 「信長のうつけ」
安土城。
佐竹家からの正式な返答は信長の予想通りのものだった。
臣従。
それも中途半端なものではない。
佐竹家としての覚悟を示した返答だった。
謁見の間では和田昭為が深く頭を下げている。
「我が主、佐竹義重は織田家への臣従を決断いたしました」
信長は黙って聞いていた。
驚きはない。
最初から分かっていたからだ。
むしろ。
どのような条件を持ってくるかの方が重要だった。
その後は細かな話し合いが続いた。
交易。
港。
商人の往来。
兵糧の融通。
情報の共有。
軍事協力。
関東有事の際の対応。
一つ一つ確認していく。
佐竹側も本気だった。
和田昭為は何度も信長や光秀、長秀らと話し合いを重ねた。
数日に及ぶ協議。
そして。
ついに全てがまとまった。
和田は深く頭を下げる。
「佐竹家に代わり御礼申し上げます」
信長は頷くだけだった。
だが。
その目はどこか楽しそうだった。
その日の夕刻。
和田は帰国の挨拶に訪れた。
明日には安土を発つ。
その報告のためだった。
「殿」
「うむ」
「我らは明朝、常陸へ向け出立いたします」
信長は頷く。
ここまでは普通だった。
問題は次だった。
「そうか」
信長は何気なく言った。
「ならば儂も行く」
和田は固まった。
理解が追いつかない。
「……は?」
思わず声が漏れる。
信長は平然としていた。
「熱田より船を出す」
「そのまま常陸へ向かう」
今度は和田だけでなく周囲の者まで固まった。
光秀は咳払いをしている。
長秀は苦笑している。
勝家は呆れた顔だった。
和田は必死に言葉を探す。
「お、お待ちくだされ」
「何を待つ」
「いや、その」
「常陸にございますぞ?」
信長は笑った。
「知っておる」
「関東であろう」
当然のように答える。
和田は頭を抱えたくなった。
天下人が自ら来る。
そんな話は聞いていない。
いや。
誰も想像していない。
普通なら重臣を派遣する。
それが当たり前だ。
しかし目の前にいる男は織田信長である。
普通が通じない。
「殿」
光秀が口を開く。
「佐竹殿は腰を抜かすやもしれませぬな」
信長は大笑いした。
「であろうな!」
豪快な笑い声が響く。
まるで悪戯を思いついた子供のようだった。
和田はようやく理解する。
この人は本気だ。
本当に来る気だ。
否と言えるはずもない。
むしろ断れば何を言われるか分からない。
「……承知いたしました」
そう答えるしかなかった。
信長は満足そうに頷く。
「案ずるな」
「関東を見てみたいだけよ」
そう言った。
だが。
光秀は知っていた。
それだけではないことを。
信長が関東へ向かう理由は一つではない。
関東の実情を見るため。
佐竹を直接見極めるため。
里見との関係を確認するため。
北条の動向を探るため。
交易路を考えるため。
そして。
もう一つ。
最近各地で感じている違和感。
それを探るためだった。
誰かが動いている。
確証はない。
だが信長は感じていた。
何かがおかしい。
何かが裏で動いている。
それが関東へ行けば見えるかもしれない。
信長は地図を見る。
常陸。
房総。
相模。
上野。
下野。
関東。
まだ誰も完全には手を伸ばしていない土地。
だからこそ面白い。
信長の目は輝いていた。
「さて」
小さく呟く。
「初めての関東よ」
その顔には戦の前とも違う。
新しい玩具を見つけた子供のような笑みが浮かんでいた。
光秀はその様子を見て苦笑する。
やはり。
この男はうつけなのだろう。
だからこそ。
天下をここまで動かした。
誰も考えないことを考え。
誰もやらないことをやる。
それが織田信長だった。
そして。
その報せはこれから関東中を震撼させることになる。
天下人が自ら来る。
その意味を。
まだ誰も理解していなかった。
本能寺まであと二百五十四日。




