第百九十三話 「新しい織田」
岐阜城。
朝の空気は穏やかだった。
奥では侍女たちが忙しく動いている。
玉の懐妊が広まってから、 城の空気は少し変わっていた。
織田家嫡流の子。
それは家中にとっても大きな意味を持つ。
奥の者たちも自然と気を張っていた。
「玉様、無理はなりませぬ」
侍女の言葉に玉は苦笑する。
「少し歩くだけです」
「それでもです」
以前なら、 玉は自ら動き回っていただろう。
だが今は違う。
守るべき命がある。
熙子も静かに頷く。
「今は頼ることも大切ですよ」
玉は少し照れたように笑った。
母がいる。
それだけで心が安定する。
岐阜へ来たばかりの頃は考えられなかった。
孤独だった。
未来を知る恐怖も、 全て一人で抱えていた。
だが今は違う。
信忠がいる。
父がいる。
母がいる。
そしてこの子がいる。
玉は静かに腹へ手を添えた。
その頃。
表では信忠が家臣たちとの評定を行っていた。
「近江の流通整備は順調にございます」
「関所の混乱も減っております」
報告が続く。
以前なら戦の話が中心だった。
だが今は違う。
街道。
銭。
港。
民。
それらをどう繋ぐか。
信忠は一つ一つ確認していく。
柴田勝家が腕を組みながら言った。
「戦が減ると、こうも話が変わるものか」
周囲に小さな笑いが起きる。
だが。
その言葉は決して嫌味ではなかった。
勝家も理解している。
今の織田は、 ただ槍を振るうだけでは回らない。
巨大になりすぎている。
「だが民は安堵しております」
丹羽長秀が静かに言う。
「戦で村が焼かれぬだけでも違いましょう」
勝家はふっと鼻を鳴らした。
「分かっておる」
そして信忠を見る。
「若殿」
「は」
「殿とは違う織田になりつつありますな」
部屋が静かになる。
信忠は少し考えた。
信長のような圧倒的才覚はない。
恐れられるほどの覇気もない。
だが。
今の織田を回すには、 別の力も必要だった。
「父上が作った流れを止めぬだけです」
信忠の言葉に、 長秀が静かに笑う。
「それが難しいのです」
誰も否定しなかった。
今の織田は急激に変わっている。
その流れを維持するだけでも容易ではない。
一方。
城下町。
商人たちは活気づいていた。
「最近は銭の流れが安定してきたな」
「織田の港は儲かる」
「戦で止まらねぇからな」
笑い声が響く。
以前なら、 戦のたびに流通は止まった。
だが今は違う。
海路が整備され、 織田銭も広がり始めている。
民にとっては、 確かに“生きやすい世”へ変わり始めていた。
その夕刻。
玉は庭を歩いていた。
信忠が後ろから声をかける。
「冷えるぞ」
「少しだけです」
信忠は隣へ立った。
二人で静かに庭を見る。
風が揺れる。
穏やかな時間だった。
「最近の若殿は忙しそうです」
玉が少し笑う。
「誰のせいだ」
「わたくしですか?」
「お前だ」
信忠の言葉に玉が小さく笑った。
その笑顔を見て、 信忠も少し表情を緩める。
戦ばかりだった織田。
だが今は違う。
守るものが増えている。
国。
民。
家。
そして未来。
信忠は静かに玉の腹へ視線を向けた。
まだ小さい。
だが。
そこには確かに、 新しい織田の未来が宿っていた。
本能寺まであと三百五日




