第百九十話 「見えぬ未来」
夜。
岐阜城の奥は静まり返っていた。
虫の音だけが微かに聞こえる。
玉は一人、灯りの下で静かに考え込んでいた。
眠れなかった。
最近増え始めた違和感。
小さな噂。
繋がらない情報。
誰かが動いているようで、 誰も見えない。
玉はゆっくりと息を吐く。
「……誰なの」
思わず漏れた声。
本来なら。
玉は知っているはずだった。
本能寺を起こす者を。
だが。
今の歴史は違う。
光秀は疲弊していない。
信忠との関係も良い。
長宗我部問題も緩和されている。
四国問題だけを理由に謀反へ走るとは思えない。
むしろ今の光秀は、 織田の中核として動いている。
父としても。
義父としても。
未来の孫のためにも。
以前より遥かに安定していた。
では。
誰が動くのか。
玉は考える。
柴田か。
いや。
勝家は真正面から戦う男。
陰で動く性格ではない。
羽柴秀吉。
可能性はある。
だが今の秀吉は毛利攻めの最中。
しかも織田の海運支配によって、 かなり有利に戦を進めている。
急いで裏切る理由が薄い。
滝川一益。
関東を任されている。
だが東はまだ不安定。
今動けば自らも危うい。
丹羽長秀。
違う。
あまりにも織田家へ忠実。
では誰なのか。
それとも。
織田家中ではないのか。
玉はそこで思考を止める。
外。
朝廷。
寺社。
商人。
毛利。
北条。
長宗我部。
あり得る。
だが。
どれも決定打に欠ける。
「……分からない」
歴史を知っているはずなのに、 未来が見えない。
それが何より怖かった。
玉は腹へ手を添える。
温かい。
守らなければ。
この子を。
未来を。
「本能寺へ行かなければ良いのか……?」
ふと呟く。
だがすぐに首を振った。
それで済むのか。
もし本能寺が“結果”なら。
原因は別にあるのではないか。
場所を変えるだけで防げるのか。
それとも。
外で襲われる可能性もある。
毒。
狙撃。
夜襲。
戦国の世に安全な場所など存在しない。
玉は目を閉じる。
本能寺だけを避けても、 歴史が別の形で修正してくる可能性すら感じていた。
「……なら」
何を防ぐべきなのか。
誰を守るべきなのか。
信長か。
信忠か。
それとも。
織田家そのものか。
そこすら曖昧になり始めていた。
今の織田は、 史実より遥かに巨大だ。
だからこそ。
崩れた時の反動も大きい。
もし信長と信忠が同時に倒れれば。
家中は割れる。
柴田。
羽柴。
滝川。
丹羽。
それぞれが動く。
玉の子が後継となったとしても、 まだ幼い。
その時。
家臣たちは本当に従うのか。
それとも。
織田の巨大さそのものが、 分裂を呼ぶのか。
玉は強く唇を噛む。
考えれば考えるほど、 未来が霧の中へ消えていく。
だが。
一つだけ確かなこともあった。
今の違和感は、 確実に何かへ向かっている。
まだ見えないだけで。
その流れは止まっていない。
襖の向こうでは、 熙子が静かに灯りを見ていた。
娘が何かを抱えている。
それは分かる。
だが。
今はまだ聞かない。
玉が話せる時まで待とう。
熙子はそう決めていた。
本能寺まであと三百十一日




