第百八十九話 「揺らぐ空気」
岐阜城。
朝の評定は静かな空気で進んでいた。
兵糧。
銭。
港。
備中の動き。
関東の報告。
以前よりも“戦”そのものの話は減っている。
代わりに増えたのは、 維持と管理。
巨大になり始めた織田をどう回すか。
それが今の課題だった。
「備中への海路は安定しております」
家臣の報告に信忠が頷く。
「長宗我部側からも協力の文が届いております」
「よし」
戦だけではない。
今の織田は、 海と銭で相手を締め上げ始めている。
それは確実に成果を出していた。
だが。
評定を終えた後。
一人の家臣がぽつりと漏らした。
「随分と変わりましたな……」
声は小さい。
だが信忠の耳には届いていた。
何が変わったのか。
その続きをその者は言わない。
しかし。
信忠には分かる。
“織田らしさ”だ。
武。
苛烈さ。
勢い。
それらだけで押し潰していた頃とは違う。
今はもっと複雑だった。
信忠は廊下を歩きながら考える。
そこへ光秀が追いついた。
「気になりますかな」
信忠は苦笑する。
「顔に出ていたか」
「少々」
光秀は穏やかだった。
以前ならここまで落ち着いて周囲を見る余裕は無かったかもしれない。
だが今は違う。
信忠の補佐として、 冷静に全体を見ている。
「不満は溜まっております」
光秀が静かに言う。
「ですが、まだ爆発するほどではございませぬ」
「まだ、か」
「はい」
光秀はそこで言葉を止めた。
問題なのは、 誰が不満を持っているかではない。
不満が広がる“空気”だ。
誰かが強く煽っているわけではない。
だが。
各地で同じような空気が生まれ始めている。
それが妙だった。
一方。
奥では玉が静かに縫い物をしていた。
その表情は以前より穏やかだ。
熙子が側にいることで、 精神的にも安定している。
「最近は少し安心しております」
玉が微笑む。
熙子も優しく頷いた。
「それが一番です」
玉は腹へ手を添える。
この子を守る。
今の玉にとって最優先はそれだった。
だが。
完全に政から目を離せるわけではない。
奥の耳は今日も様々な話を運んでくる。
「最近、武士たちの顔つきが変わった」
「城下で妙な噂が増えている」
「誰が流したか分からぬ話」
どれも小さい。
だが。
静かに広がっている。
玉は思う。
まるで水面に落ちた波紋のようだ、と。
誰か一人が騒いでいるわけではない。
なのに、 空気だけが揺れている。
「母上」
「はい」
「……嫌な感じがします」
熙子は娘を見つめた。
「分からぬものほど、人は不安になります」
「ですが、今は耐える時かもしれませぬ」
玉は小さく頷く。
焦れば見誤る。
今はまだ、 何も見えていない。
その頃。
安土では信長が静かに笑っていた。
「広がっておるな」
各地の報告を前に、 信長はむしろ愉快そうだった。
「殿」
長秀が低く問う。
「このままでよろしいので?」
信長は迷いなく答える。
「良い」
「動かぬ者は見えぬ」
「だが空気が揺れれば、人は勝手に動き始める」
信長の目は鋭かった。
違和感。
不満。
揺らぎ。
それらを利用し、 逆に炙り出そうとしている。
だが。
その違和感が、 どこまで広がっているのか。
まだ誰も把握できてはいなかった。
本能寺まであと三百十三日




