第百八十三話 「織田の流れ」
岐阜城。
奥には穏やかな時間が流れていた。
庭では春の風が静かに木々を揺らしている。
玉は廊下に座り、ぼんやりと庭を見つめていた。
その表情には以前のような張り詰めた空気が少ない。
懐妊してから、周囲が自分を守ろうとしているのを感じていた。
信忠。
父、光秀。
そして母、熙子。
皆が気を遣ってくれている。
だからこそ。
少しだけ肩の力を抜けるようになっていた。
「玉」
優しい声。
振り返ると熙子がいた。
手には温かな薬湯。
「冷えてはいけませぬ」
「ありがとうございます、母上」
玉は素直に受け取る。
熙子はその横へ静かに座った。
しばらく無言。
だが不思議と落ち着く。
幼い頃から変わらぬ空気だった。
玉は小さく笑う。
「こうして母上と過ごしていると……昔に戻ったようです」
熙子も微笑む。
「玉は昔から無理をしておりましたから」
「そうでしょうか」
「ええ」
熙子は娘の顔を見る。
「人より周りを見すぎるのです」
玉は少し困ったように笑った。
図星だった。
岐阜城へ来てからずっとそうだった。
本能寺を防ぐ。
未来を変える。
その思いだけで動いてきた。
だが。
今は違う。
腹には命がある。
守らなければならない。
その重みが以前とは違っていた。
玉はそっと腹へ触れる。
「……時々、怖くなるのです」
熙子は静かに聞いていた。
「ちゃんと産めるのか」
「この子を守れるのか」
「私に母親が務まるのか」
玉は俯く。
普段、人前では決して見せない弱さ。
まだ十五の少女なのだ。
強く振る舞っていても、不安が消えるわけではない。
熙子は優しく玉の頭へ手を置いた。
「皆、最初はそうですよ」
「母上も……?」
「もちろんです」
熙子は懐かしそうに笑った。
「玉を授かった時、不安で眠れぬ日もありました」
玉は少し驚いた顔をする。
いつも穏やかで落ち着いて見える母にも、そんな時があった。
「ですが」
熙子は静かに続ける。
「産まれてきた玉を抱いた時、その不安は吹き飛びました」
玉の目が少し潤む。
熙子は娘の頬へそっと触れた。
「大丈夫」
「一人ではありませぬ」
その言葉に、玉の肩から少し力が抜ける。
気づけば涙が零れていた。
「……母上」
熙子は何も言わず、静かに抱き寄せる。
玉もまた、小さな子供のように母へ身体を預けた。
奥の者たちは静かにその場を離れる。
今だけは。
正室でも。
明智の娘でも。
未来を知る者でもない。
ただの若い娘でよかった。
しばらくして。
落ち着いた玉は少し恥ずかしそうに笑う。
「信忠様には見せられませぬね」
熙子はくすりと笑った。
「きっと喜ばれますよ」
「もう、母上」
玉は頬を赤らめる。
その表情は年相応の少女そのものだった。
だが。
その瞳の奥には確かな決意もある。
守りたい。
この命を。
この未来を。
その想いだけは揺らいでいなかった。
本能寺まであと三百二十九日




