第十八話「蝮の娘と、静かな刃」
岐阜城の朝は早い。
鶏の声よりも早く、女たちの足音が廊下を走り始める。
湯の匂い、炭の匂い、濡れた布の匂い。
そのすべてが混ざり合い、城は目を覚ます。
私は黙って水を運び、布を絞り、床を拭いた。
息を潜めるように。
目立たぬように。
そう、目立たぬように生きるつもりだった。
だが、この城でそれは無意味だった。
ここには、目がある。
帰蝶の目だ。
帰蝶は、朝から人を見ていた。
侍女の手元。
女中の歩幅。
茶の温度。
扇の揺れ方。
そして、言葉。
「はい」と言った声の高さ。
「承知いたしました」と言った時の間。
言葉の裏に潜む、恐れと欲。
それを帰蝶は、まるで縫い糸を引くように拾い上げていく。
私は気づいていた。
この女は、女たちを「人」として見ていない。
駒として見ている。
だが駒を粗末にはしない。
必要な駒は磨き、不要な駒は捨てる。
それだけだ。
そして私は今――磨かれる側に入ってしまった。
帰蝶の部屋に呼ばれたのは、昼前だった。
襖が開き、香が流れ出す。
私は膝をつき、頭を下げた。
「奥方様」
帰蝶は文机に向かったまま、こちらを見ない。
「玉」
その呼び方が、すでに試しだった。
私は答える。
「はい」
帰蝶は言った。
「お前は昨日、天下について申したな」
胸が少しだけ跳ねる。
私は静かに答えた。
「恐れながら」
帰蝶は扇を置き、ようやくこちらを見た。
「お前の言葉は、幼いが軽くはない」
褒められているのか、試されているのか。
この女の言葉はいつも曖昧だ。
だが曖昧さこそが刃だ。
私はただ頭を下げた。
帰蝶は続けた。
「明智の娘は、皆こうなのか?」
私は息を吸った。
罠だ。
明智家の教育を問うている。
私は慎重に答える。
「父上は、静かに学べと申します」
帰蝶は小さく笑った。
「静かに学べ、か」
その笑いが意味するものは一つ。
――光秀は危険だ。
帰蝶は確信している。
光秀が「静かな男」であることを。
静かな男は、突然刃を抜く。
帰蝶はそれを知っている。
私は背筋が冷えた。
(この人は、父上を疑っている)
疑うのは当然だ。
織田の周囲は、味方しかいないように見えて、誰も味方ではない。
私はそれを知っている。
だから私は、ここで一つだけ「子ども」を使った。
私は少し首を傾げた。
「奥方様は……父上をお嫌いですか?」
帰蝶の目が、僅かに細くなった。
「嫌い?」
帰蝶は扇を指先で弾き、淡々と答えた。
「嫌いではない」
その言葉が、妙に怖い。
帰蝶は続ける。
「ただ、私は信じぬだけだ。
信じるのは、家でも男でもない」
そして私を見た。
「信じるのは、目に映る事実だけ」
私は息を呑んだ。
この女は、恐ろしく冷たい。
だが同時に、恐ろしく正しい。
だからこそ、織田の奥方でいられる。
帰蝶は言った。
「玉。お前の目は、事実を見ている目だ」
私は黙った。
帰蝶は、少し声を落とした。
「……だから気になる」
その一言に、私は全身が固くなった。
気になる。
その言葉は、可愛がるではない。
捕らえるという意味だ。
その日の午後、帰蝶は客を迎えた。
尾張から来た商人。
京から来た僧。
美濃の国衆の妻。
私は隅で茶を運びながら、その会話を聞いた。
帰蝶は笑う。
笑いながら、相手の言葉を削る。
相手が言葉を選ぶように仕向ける。
そして、最後には相手から「欲しい言葉」を引き出す。
私は思った。
(この人は戦っている)
刀ではない。
会話で。
香の席で。
女の世界で。
帰蝶は、武将より恐ろしい。
私は、その恐ろしさが必要だと感じた。
父上を守るためには、
この女の側にいなければならない。
だが同時に思う。
(この人は、父上を守らない)
帰蝶は織田の女だ。
織田の利益のためなら、明智を切る。
その判断を、笑顔でやる。
私は背中に汗が滲むのを感じた。
(味方になってもらうのではない)
(利用されぬように、利用する)
その覚悟が必要だった。
夜。
私は帰蝶の部屋で灯を整えていた。
帰蝶は文を読んでいた。
その手元の紙が、ちらりと見える。
――将軍。
その二文字が見えた瞬間、私の心臓が跳ねた。
帰蝶は顔を上げずに言った。
「見たな」
私は慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません」
帰蝶は静かに言った。
「謝るな。
見たのなら、どう思う」
私は答えられなかった。
将軍の噂は、火だ。
触れれば燃える。
私は沈黙した。
帰蝶は笑った。
「黙るのは賢い。
だが黙り続ける者は、いつか喉を切られる」
私は息を呑む。
帰蝶は紙を置き、私を見た。
「玉。お前は何を望む」
問いが来た。
核心の問い。
私は一瞬だけ迷った。
ここで本音を言えば、捕まる。
ここで嘘を言えば、捨てられる。
私は答えを決めた。
半分だけ、真実を言う。
私は小さく言った。
「父上が……疲れているのが嫌です」
帰蝶は目を細めた。
「それだけか」
私は頷く。
「はい」
帰蝶はしばらく私を見つめた。
その目は、蛇が獲物の心臓の位置を測る目だった。
やがて帰蝶は、小さく息を吐いた。
「お前は、良い娘だな」
その言葉が、なぜか怖かった。
良い娘。
良い娘は、利用される。
私は笑わなかった。
ただ、頭を下げた。
帰蝶は続けた。
「だが良い娘でいるだけでは、生き残れぬ」
私は目を上げた。
帰蝶は扇を開き、口元を隠した。
「この城は、男が戦をし、女が戦をする場所だ」
私は小さく頷いた。
帰蝶は言った。
「お前は戦える」
その瞬間、私は確信した。
この女は、私を道具として使うつもりだ。
だが、それでいい。
私もまた、帰蝶を道具として使う。
互いに互いを見抜き合う。
それがこの城の生き方だ。
私はその夜、布団に入っても眠れなかった。
灯の残像が目に焼き付いている。
帰蝶の目。
将軍の文字。
父上の疲れた声。
未来の炎。
私は小さな手を握りしめた。
(私は、目を手に入れた)
(でも、まだ足りない)
耳と目は揃った。
次に必要なのは、口だ。
この城で「言葉」を武器にできなければ、私は焼ける。
帰蝶の観察眼は、私を育てる。
だが同時に、私を殺す。
私は布団の中で息を吐き、心の中で呟いた。
(私はこの女のそばで、生き残る)
(そして父上を、刃にさせない)
外で風が鳴った。
岐阜城は静かに眠り、
その眠りの中で、天下の歯車が回っていた。




