第十七話「蝮の娘の眼差し」
岐阜城は、冷たかった。
石の匂い。
濡れた土の匂い。
そして、人の欲が混じった匂い。
門をくぐった瞬間、私は悟った。
ここは「城」ではない。
巨大な獣の腹の中だ。
息をするだけで、肺の奥が重くなる。
私は荷を抱えたまま、頭を下げた。
奉公に上がった姫。
――いや。
今日から私は「姫」ではなく、下働きの一人として扱われる。
その方がいい。
目立たず、聞き、見て、拾う。
それが私の役目だ。
案内された部屋は、華やかだった。
畳は新しく、襖には金。
香は濃く、灯は明るい。
ここに座る女が、織田の奥方。
帰蝶。
濃姫。
私は深く頭を下げた。
「明智の娘、玉にございます。
このたびは奉公の許しを賜り、恐れ入ります」
声が震えないように、息を整える。
帰蝶は扇を手にしたまま、私を見下ろしていた。
何も言わない。
その沈黙が、刃だった。
言葉より先に、視線で切り裂いてくる。
私は頭を下げたまま、背筋だけを伸ばした。
(見られている)
この女は、噂のような美しさではない。
美しさはある。
だがそれ以上に――目が冷たい。
蛇の目だ。
蝮の娘と呼ばれた女の目。
帰蝶は、ようやく口を開いた。
「……明智の姫が、下働きとは」
その声は柔らかい。
けれど柔らかさは、刃を包む布にすぎない。
私は伏せたまま答える。
「父の願いにございます。
私もまた、学びたく存じます」
帰蝶は小さく笑った。
「学び、か」
私は言葉を続けない。
余計なことを言えば、刺される。
ここでは口数が多い者から死ぬ。
帰蝶は侍女へ目を向けた。
「この子は、台所へ」
侍女が頷く。
「はっ」
それで終わった。
私は安堵した。
最初は、下でいい。
下働きとして、黙々と。
目立たずに生きる。
それが最善だ。
台所は熱かった。
湯気。
炭の匂い。
包丁の音。
女たちが忙しく動き、怒号が飛ぶ。
私は袖をまくり、皿を洗った。
水は冷たい。
手が赤くなる。
だが、構わない。
痛みは生きている証だ。
私は黙って働いた。
掃除。
水汲み。
布の洗い。
命じられたことを、ただ確実にこなす。
声を出さない。
目を上げない。
私は「存在しない者」として城に溶け込もうとした。
――なのに。
昼過ぎ、侍女が私を呼んだ。
「玉。奥方様がお呼び」
心臓が跳ねた。
(なぜ)
まだ何もしていない。
目立っていない。
そう思った瞬間、背中が冷えた。
目立っていないと思っているのは、自分だけだ。
帰蝶の部屋へ通される。
香が濃い。
畳の上に座す帰蝶は、変わらぬ顔で私を見た。
私は膝をつき、頭を下げた。
「お呼びにございますか」
帰蝶は扇を閉じ、静かに言った。
「お前、目が悪いのか」
一瞬、意味が分からなかった。
私は顔を上げずに答える。
「いえ……」
帰蝶は続けた。
「ならば、なぜ人を見ぬ」
私は息を呑んだ。
見ている。
見ているからこそ、見ないふりをしている。
帰蝶は、淡々と言った。
「下働きは下働きらしく、怯えていればよい。
だが、お前は怯えていない」
私は喉が乾くのを感じた。
帰蝶は微笑んだ。
「怖くないのか」
私は一瞬迷い、子どもの答えを選んだ。
「……怖いです」
帰蝶は首を傾げた。
「なら、なぜ逃げぬ」
私は小さく言った。
「逃げたら、もっと怖いので」
帰蝶の目が細くなった。
その瞬間、私は理解した。
この女は遊んでいるのではない。
試している。
帰蝶は言った。
「今日から、お前は私のそばで働け」
私は顔を上げた。
思わず目が揺れる。
「……私が、でございますか」
帰蝶は頷いた。
「貴重な席だ。
嫌なら帰ってよい」
嫌だと言えるはずがない。
私は深く頭を下げた。
「恐れ入ります。務めさせていただきます」
帰蝶は扇を揺らし、笑った。
「よい子だ」
その声が、ぞっとするほど優しかった。
それから私は、帰蝶のそばで働いた。
香を焚く。
衣を整える。
書状を運ぶ。
水を替える。
黙って働く。
私は目立たぬよう、呼吸まで静かにした。
帰蝶は多くを語らない。
だが、私の背中をずっと見ている。
見られている。
それが分かる。
帰蝶の視線は、刀より冷たい。
私は心の中で何度も唱えた。
(余計なことは言わない)
(余計なことは見せない)
(私はただの娘)
(ただの下働き)
それで生き残れるはずだった。
ある日。
帰蝶は書を広げたまま、私を呼んだ。
「玉」
私は膝をつき、頭を下げた。
「はい」
帰蝶は、紙を一枚、私の前へ滑らせた。
白い紙。
墨もない。
何も書かれていない。
「お前は字が書けるな」
私は答えた。
「はい」
帰蝶は淡々と言った。
「なら、これに書け」
私は手を伸ばしかけて止まった。
「……何を、でございますか」
帰蝶は笑った。
「この先の天下について、お前はどう思う」
息が止まった。
天下。
その言葉は軽い。
だが、この部屋でその言葉を口にするのは、刃を抜くのと同じだ。
私はゆっくりと首を伏せた。
「……私には分かりませぬ」
帰蝶は扇を閉じた。
音が小さく響く。
「分からぬ?
明智の娘が?」
私は静かに答えた。
「私は子どもにございます」
帰蝶は沈黙した。
沈黙が長い。
私はその長さが怖かった。
帰蝶は言った。
「子どもは、嘘をつかぬ。
分からぬなら、分からぬと申せばよい」
私はその言葉に、少しだけ救われた。
だが帰蝶は続けた。
「だが、お前の目は嘘をついている」
私は胸の奥が冷えた。
帰蝶は身を乗り出し、囁くように言った。
「お前は知っている目だ。
知らぬ者の目ではない」
私は紙を見つめた。
白い紙が、炎に見えた。
未来を書けば、未来は近づく。
書けば、逃げられなくなる。
私は答えを決めた。
一度、断る。
ここで本音を見せるのは危険だ。
私は頭を下げた。
「奥方様。恐れながら、そのようなことを口にするのは……」
帰蝶の目が細くなる。
「口にできぬか」
私は続けた。
「もし私の言葉が、殿のお耳に入り、
奥方様のお立場を危うくするなら……私は」
帰蝶は笑った。
「私を案じるのか」
私は震えそうになりながら答えた。
「はい」
帰蝶は扇で口元を隠した。
そして、静かに言った。
「ならば、なおさら申せ」
私は息を呑む。
逃げ道が消えた。
帰蝶は言葉を重ねた。
「何でもよい。
子どもの考えでよい。
申してみろ」
私は唇を噛んだ。
どうする。
ここで沈黙すれば、疑われる。
ここで適当を言えば、見抜かれる。
私は覚悟を決めた。
半分だけ真実を言う。
未来の核心は隠し、
それでも「利口な娘」として価値のある答えを出す。
私は紙に触れず、口で言った。
「……天下は、刀だけでは取れぬと思います」
帰蝶の眉が、僅かに動いた。
私は続けた。
「都を押さえ、
人の口を押さえ、
米を押さえ……」
私は少し言葉を探す。
子どもらしい迷いを、わざと混ぜる。
「……皆が、逆らうのが怖いと思うほどに」
帰蝶は目を細めた。
「ほう」
私は声を落とす。
「けれど怖さだけでは、いつか皆が逃げます。
怖さが積もると、誰かが……刃を抜きます」
言ってしまった。
刃。
その言葉が、部屋の空気を変えた。
帰蝶の目が、一瞬だけ鋭く光った。
私は慌てて付け足す。
「……だから、殿は怖いだけではいけないと思います。
怖くても、皆が従う理由が要るのです」
帰蝶はしばらく黙っていた。
私の言葉を味わうように。
そして、笑った。
「面白い」
その笑いは、褒め言葉ではない。
獲物を見つけた笑いだった。
帰蝶はゆっくりと立ち上がり、私の前まで歩いた。
香が近い。
私は頭を下げたまま、動かない。
帰蝶は言った。
「玉。お前は――」
扇の先が、私の顎の下に触れた。
軽い。
だが逆らえない。
帰蝶は私の顔を上げさせ、目を覗き込んだ。
「……誰の子だ?」
私は息を止めた。
帰蝶の目は、優しさがない。
けれど、嫌悪でもない。
興味。
純粋な興味。
私は微笑んだ。
子どもらしい微笑みを作った。
「明智の子にございます」
帰蝶は扇を引き、静かに言った。
「それだけでは足りぬ」
私は答えない。
答えられない。
帰蝶は背を向け、窓の外を見た。
「天下は、これから大きく動く。
動く者の近くにいる者だけが、生き残る」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
帰蝶は続けた。
「お前は、動く者の目をしている」
そして、振り返った。
「しばらく私のそばに置く。
逃げるなよ」
私は深く頭を下げた。
「……はい」
声が震えた。
震えたのは恐怖か、安堵か、自分でも分からない。
ただ一つだけ分かる。
私は、帰蝶に見つかった。
目立たずに生きるはずだったのに。
帰蝶の目は、闇の中でも獲物を見つける。
蝮の娘。
その名は伊達ではない。
私は膝をついたまま、心の中で呟いた。
(これで、道が繋がった)
(私は織田の内側に入った)
(父上の背を守れる)
だが同時に、もう一つの声が囁く。
――ここで間違えれば、私が燃える。
私は笑った。
子どもの顔で。
そして、静かに働き始めた。
歴史の中心で。




