第一六話「星の巡りと、確かなる足跡」
明智の屋敷。
夜は深く、冷えは畳の下から忍び込んでくる。
行灯の灯が揺れ、影が壁をゆっくりと伸び縮みしていた。
父――明智十兵衛光秀は、書状を広げたまま黙している。
母――熙子は、針仕事を手にしながらも、視線だけは夫の表情を追っていた。
私は二人の前に、正座をした。
膝が少し痛い。
だが、姿勢は崩さない。
私は息を吸った。
そして、子どもの声で――けれど、逃げずに言った。
「……父上。お願いがございます」
光秀は顔を上げた。
「申してみよ」
私は袖を握りしめた。
怖い。
怖いが、ここで言わねば未来は変わらない。
「濃姫……帰蝶様の下へ、奉公に上がりたく存じます」
その瞬間、母の針が止まった。
父の目が、静かに細くなる。
「……何を申す」
声は低い。
怒りではない。
驚きと警戒が混じっている。
「これから織田と足利の間に立ち、明智にとっても危急の時。
そのような折に、お前を火中の栗を拾うような場所へはやれぬ」
私は一度、唇を噛んだ。
父の言葉は正しい。
だからこそ、私は勝たねばならない。
子どもが子どものまま、理屈で大人を動かす必要がある。
私は、目を伏せて言った。
「……怖いです」
母が息を呑む。
私は続けた。
「でも、怖いから行きたいのです」
光秀の眉が、わずかに動いた。
私は膝の上で指を握りしめた。
指先が冷たくなる。
「父上が京へ行かれるたび、屋敷の空気が変わります。
侍女たちの声が小さくなって、母上の目が少しだけ暗くなります」
言いながら、胸が痛んだ。
母が傷ついていることを口にするのは、罪のようだった。
だが言わなければならない。
「私は姫なのに、何も知らされません。
知らされないまま、大人たちの顔色だけ見て……ただ待つのが、怖いです」
子どもの言葉にしては、少し生々しい。
けれど、それは本音だった。
本音は時に、刀より強い。
私は顔を上げた。
「父上。今この時、織田という大きな器の内側に、明智の者が居らぬことこそが危ういと思います」
光秀が黙った。
私は一歩だけ踏み込む。
だが、踏み込み方は子どもらしく。
「帰蝶様の御側に、私は行きたいのです。
偉い場所に行きたいのではありません」
私は少しだけ声を小さくした。
「……帰蝶様のそばにいれば、父上がどんな風に見られているのか、分かります」
父の目が鋭くなる。
その反応で分かった。
父もそれを気にしている。
私は続けた。
「父上は、殿の御用で頭を下げ続けておられます。
でも、誰かが父上の背を守らなければ、いつか……背中から刺されます」
言ってしまった。
私の言葉が、広間の空気を凍らせた。
母が思わず私の名を呼ぶ。
「玉……」
私は母の方を見て、ほんの少しだけ笑った。
「母上、私は大丈夫です。……怖いけど」
怖いと言いながら、涙は出さない。
泣けば、子ども扱いされる。
私は泣けない。
光秀が静かに言った。
「……玉。お前は、誰に教わった」
私は首を振った。
「誰にも」
それは嘘ではない。
未来が教えた。
私は言葉を選び、慎重に続ける。
「私は、ただ……父上が疲れて帰ってくるのが、嫌なのです」
その一言に、父の表情が少しだけ緩んだ。
私はその隙を逃さなかった。
「帰蝶様の屋敷で下働きをさせてください。
私はまだ子どもです。側近にはなれません」
私は少し恥ずかしそうに視線を落とす。
「掃除でも、茶を運ぶことでも、なんでもします。
ただ、そこにいさせてください」
子どもらしい願い。
だが目的は明確。
私は顔を上げ、父を真っ直ぐ見た。
「父上が殿に尽くすなら、私は帰蝶様に尽くします。
それで明智が織田の中で孤立しないなら……私はそれがいいです」
母が息を吐いた。
その吐息は、安堵ではなく覚悟の音だった。
光秀は私を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が長いほど、私の心臓は痛くなる。
――お願い。
お願いだから、父上。
ここで止められたら、私は次の手がない。
未来の炎が、私の背中を押す。
ようやく父が、低く言った。
「……帰蝶様の屋敷は、女の戦場だ」
私は頷く。
「はい」
「笑っていても、首が落ちる」
私はもう一度頷いた。
「分かります」
光秀の目が、私を刺すように見た。
「分かる、か。
九つの子が」
私は一瞬だけ迷った。
ここで大人ぶれば危ない。
だから私は、子どもの言葉で答えた。
「分かりません。……でも、学びます」
その言葉が、私の本心だった。
光秀は目を閉じた。
長い息を吐く。
まるで己の中の何かを、押し殺すように。
「……よかろう」
母が顔を上げた。
私の胸が跳ねた。
光秀は続ける。
「お前の望み通り、帰蝶様への奉公を許す。
ただし、下働きからだ。
姫としての立場を忘れろ」
私はすぐに頭を下げた。
「ありがとうございます、父上」
その声が震えそうになるのを、必死で抑える。
光秀の声が、少しだけ柔らかくなる。
「だが――玉」
私は顔を上げる。
父は、私の目を真っ直ぐに見た。
「お前のその目は、時に刃になる。
出し過ぎれば、己を滅ぼす毒にもなる」
私は小さく頷いた。
「肝に銘じます」
母が、夫の袖をそっと引いた。
「十兵衛様……」
光秀は母を見て、静かに言った。
「熙子。
この子は……守られるだけの子ではない」
母の目が揺れた。
そして、微笑んだ。
「……そうでございますね」
母は私の頭を撫でた。
その手は温かい。
私はその温もりに、少しだけ子どもに戻りそうになった。
けれど戻らない。
戻れない。
私は心の中で言った。
(これでいい)
(帰蝶の懐へ入る)
(父上の背を守る)
(細川へ行かない未来を掴む)
私は深く頭を垂れた。
畳に額が触れるほどに。
その胸の内では、静かな情熱が渦を巻いていた。
これは奉公ではない。
戦だ。
刀の代わりに、言葉を持つ戦。
そして――歴史という巨大な流れを、
たった一人の娘が押し返す戦。




