第一五話 「帰還の気配、観察の緒」
その日の夕刻。
明智の屋敷の空気が、音もなく裏返った。
廊下を走る足。
門前で止まる馬の蹄。
家臣の声が、庭を裂いた。
「殿のお帰りである!」
私は、胸の奥が冷えるのを感じていた。
(……来る)
根拠はない。
ただ、風の匂いが変わった。
火と鉄と、遠い都の匂い。
それが屋敷の空気に混じった瞬間、私は悟った。
父が、帰ってくる。
母・熙子と共に玄関へ向かう。
私は板間に膝をつき、礼の形を作る。
伏せた視線の奥で、足元だけを見た。
まず足音。
乾いた板を叩く音が、僅かに乱れている。
(……歩法が崩れている)
左足の踏み込みが浅い。
三歩に一度、ほんの僅かに間が空く。
それは怪我ではない。
疲労――いや、もっと厄介なものだ。
心が先に折れかけている時の足取りだ。
そして、姿。
帰還した父――明智十兵衛光秀は、いつものように整っていなかった。
直垂は埃に汚れ、袖口は煤け、髪は乱れを押し隠すように結われている。
それでも姿勢だけは崩していない。
崩せないのだ。
崩した瞬間、何かが壊れると知っている人間の姿だった。
母が、胸の底から息を吐く。
「十兵衛様、おかえりなさいませ。
無事のご帰還、何よりにございます」
父はわずかに頷いた。
「……ああ。
ただいま戻った」
短い声。
その声が掠れていた。
喉が乾いている。
水を飲んでいないのではない。
言葉を飲み込み続けた者の喉だ。
(父上……)
私はその声に、胸の奥が痛くなるのを感じた。
帰ってきた父は、確かに父だった。
だが、同時に
京という獣に噛まれた人間の匂いがした。
父が広間へ通される。
私は茶を運ぶ振りをして、父の近くへ寄った。
その距離で、ようやく分かる。
目尻の皺が深い。
頬が少しこけている。
瞳孔が、まだ僅かに開いたままだった。
まるで強烈な光を見た後のように。
いや、光だ。
織田信長という男は、人を焼く光なのだ。
父の袖口には、馬の汗とは違う匂いが付いていた。
火薬と、煤と、焦げた布の匂い。
戦場の匂いではない。
「都」の匂いだ。
私は息を殺し、父の呼吸を聞いた。
周期が整わない。
時折、肺の奥で小さく息を呑む音が混じる。
思い出している。
反芻している。
そして、その正体を掴めずにいる。
(……父上は、今も戦場にいる)
ここに帰ってきたのに。
屋敷の畳の上に座っているのに。
父の心だけが、京に置き去りになっている。
私は確信した。
父は、信長に会った。
そして何かを見せられた。
人の命の軽さを。
天下の形を。
理屈の通じない力を。
「……玉か」
父がふと、私に視線を落とした。
その目が、私を貫く。
私は瞬間、炎が見えた。
燃える屋敷。
叫ぶ家臣。
母の腕の温度が消える瞬間。
未来が、喉元まで迫ってきた。
私は微笑んだ。
微笑むしかなかった。
父は静かに言う。
「お前は、いつ見ても静かだな。
まるで……鏡の前に座っているような気分になる」
鏡。
それは褒め言葉ではない。
鏡は、嘘を映さない。
鏡は、汚れも映す。
父は、自分の疲れを私に見透かされていると感じたのだ。
私は小さく頭を下げた。
「父上が、あまりに険しい風を纏って戻られましたゆえ。
私はただ、その風が止むのを待っているまでにございます」
子どもの言葉にしては、硬い。
だが父は、それを咎めない。
咎められないほど、父は疲れていた。
父の顔色が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
私の目が、父の胸の奥を覗き込んだ気がしたのだろう。
私は茶を置いた。
湯気が立ち上る。
その湯気の向こうで、父の指先がわずかに震えているのを見た。
誰にも気づかれないほど小さく。
けれど私には分かる。
父の震えは、寒さではない。
恐れだ。
そして困惑だ。
「何が正しいのか」
その答えを見失いかけた者の震えだ。
私は、その震えを見た瞬間、胸の奥が燃えた。
怒りではない。
焦りだ。
(このままでは、父上が壊れる)
(壊れた父上が――歴史を動かす)
私は知っている。
歴史は、英雄が動かすのではない。
限界に追い詰められた人間が、最後に刃を抜くことで動く。
本能寺は、刃の結果ではない。
刃を抜くまでの「削れ」の積み重ねだ。
私は問いを投げた。
母が止めるよりも早く。
「父上。尾張の御方は、どのような御方でしたか?」
母が息を呑んだ。
侍女たちの気配が、一瞬で固まる。
父は茶碗を持ったまま、沈黙した。
沈黙が長い。
長すぎる。
その沈黙が、答えだった。
虫の声が、外で鳴いている。
その音が、時を刻む針のように聞こえた。
父はようやく口を開いた。
「……理の外におられた」
そして、絞り出すように続ける。
「あの御方の周りだけ、
時の流れも、人の命の重さも、すべてが組み変わってしまう」
父はそこで言葉を切った。
喉が鳴る。
まるで飲み込めないものを、無理に飲み込んだような音だった。
「……恐ろしい男だ」
その言葉が落ちた瞬間、私の中で何かが決定した。
やはり。
信長は父を削る。
信長の光は、父を焼く。
そして焼かれた父は、いつか炎を返す。
それが本能寺だ。
私は息を吸った。
子どもの胸で、深く吸った。
そして静かに思う。
(父上が変わってしまう前に)
(明智という家が飲み込まれる前に)
(私が、あの世界へ入らねばならない)
信長の隣へではない。
その隣で、唯一「信長の火」を受け止められる女の懐へ。
帰蝶。
濃姫。
私はそこに潜り込む。
潜り込み、織田の空気を変える。
父が矢面に立たぬように、風向きを変える。
私は顔を上げた。
父の疲弊した顔を、真っ直ぐに見る。
そして、柔らかく言った。
「父上。
お疲れのところ恐縮ですが、お話ししたきことがございます」
父が目を細めた。
私は微笑んだまま、続けた。
「……私の、これからの人生について」
その瞳には、もはや子どもの好奇心などなかった。
ただ一つ。
未来を変えるための覚悟だけが、澄んで宿っていた。




