第十四話「京の刃、屋敷の香」
京は、音が多い。
人の声。
車輪の軋み。
下駄の乾いた響き。
商いの呼び声。
それらが混じり合い、絶えず流れている。
だが光秀には、そのすべてが――遠い。
遠いというより、薄い。
まるで布一枚隔てた向こう側の世界のようだった。
宿の部屋。
薄暗い行灯。
膝の上の文机。
墨の匂いが、夜の冷えた空気に溶けていく。
光秀は筆を握ったまま、動かない。
紙の上には、まだ何も書かれていない。
書くべき言葉は決まっている。
「変わりはない」
それだけでいい。
それだけで、奥方は安心する。
玉も、笑うだろう。
――だが、変わりはないなど、嘘だ。
変わりすぎている。
京は変わっている。
織田は変わっている。
信長は変わっている。
そして何より、自分の心が変わっている。
光秀は目を閉じた。
今日一日が、瞼の裏で再び始まった。
朝廷の使者。
薄い笑みを貼り付けた公家が、言った。
「明智殿。殿下のお心も、いささかお疲れのようで……」
疲れているのは、殿下ではない。
この国そのものだ。
光秀は頭を下げた。
「恐れ入ります。殿下には、織田の殿より――」
その言葉の途中で、公家は扇子を揺らした。
「織田の殿、織田の殿……。
京は、いつから武家の庭となったのでしょうな」
嫌味。
嫌味の刃は、血を出さない。
だが確実に削る。
光秀は笑った。
笑わなければならない。
笑わなければ、火がつく。
「この都を守るためでございます」
公家は笑った。
「守る、ですか。
守るとは、門を閉じ、首を晒すことですか?」
光秀の胸が、ひくりと動いた。
首を晒す。
その言葉は、脅しだ。
誰の首でも晒せる。
信長ならば。
光秀は何も言わず、深く頭を下げた。
寺社の僧。
声は静かだが、眼差しが鋭い。
「明智殿。
殿は、寺を潰すおつもりか」
光秀は息を吸い、吐いた。
「殿は、仏を憎んでおられるわけではない」
それは本当だ。
信長は仏を憎まない。
ただ、従わない者を許さない。
僧は言った。
「ならば、なぜ比叡山を焼いた」
その言葉が、光秀の耳に残る。
比叡山。
焼いたのは信長だ。
だが燃やした火の匂いは、京に染みついたままだ。
そして、その火の匂いは――
光秀の袖にもついている。
光秀は僧に向かって言った。
「殿は、乱れを正されるだけだ」
僧は目を細めた。
「正す、ですか」
その目が、言っていた。
正す者は、いずれ正される。
光秀は、また頭を下げた。
織田の武将。
酒の席で、笑いながら言った。
「明智殿は、京が似合うな。
腰が低いからな」
周囲が笑う。
笑い声が、酒に混じって揺れる。
光秀は、笑った。
笑うしかない。
この場で怒れば、信長の耳に入る。
信長の耳に入れば、信長は言うだろう。
「笑えぬのか」
その一言で終わる。
光秀は知っている。
信長は、怒りを嫌う。
怒りを見せる者を嫌う。
感情を持つ者を嫌う。
――いや、違う。
信長は感情を嫌うのではない。
感情に負ける者を嫌うのだ。
光秀は杯を口に運び、言った。
「ありがたいお言葉」
笑いながら、心が冷える。
自分はいつから、こうなった。
己の誇りを飲み込み、
言葉を飲み込み、
ただ殿のために頭を下げる。
それが忠義だと思っていた。
だが、忠義とは己を削り続けることなのか。
そして今日の最後。
信長からの命。
それは命令ではなく、投げ捨てられた言葉だった。
「明智。
京の騒ぎを止めよ」
京の騒ぎ。
将軍を巡る噂。
公家の囁き。
寺社の怨嗟。
「信長は将軍を殺す」
「信長は帝すら操る」
「信長は都を燃やす」
噂が噂を呼び、火が火を呼ぶ。
それを止めろ、と。
光秀は頭を下げた。
「は」
返事は短く。
感情は見せず。
信長は続けた。
「おぬしなら出来る」
褒め言葉に聞こえる。
だが光秀には、それが鎖に聞こえた。
おぬしなら出来る。
つまりおぬしがやれ。
光秀は胸の奥が鈍く痛むのを感じた。
なぜ、殿は分からぬのか。
京は、刀では止まらない。
京は、命令では静まらない。
京は「恐怖」で燃える。
恐怖が燃料だ。
そしてその恐怖の中心に、殿がいる。
光秀が火を消しても、
殿が火を投げ続ける限り、燃え続ける。
光秀は、その矛盾を背負っている。
夜。
宿の部屋に戻り、筆を持った。
紙は白い。
白すぎて、怖い。
光秀は墨を擦った。
墨の匂いが立ち上る。
この匂いだけが、昔から変わらない。
光秀は筆を紙に落とした。
書く。
奥方へ。
玉へ。
安心させねばならぬ。
心配をさせれば、家が揺れる。
家が揺れれば、自分が揺れる。
自分が揺れれば、殿の前で崩れる。
崩れれば――終わる。
光秀は、筆を走らせた。
「変わりはない」
それだけ書いたところで、筆が止まった。
変わりはない。
嘘だ。
光秀は紙を見つめた。
そして、ふと玉の顔が浮かんだ。
九歳の玉。
あの目は、時折大人の目をする。
賢い子だ。
賢すぎる。
あの子は、何かを見ている。
未来でも見ているような目だ。
光秀は、知らず拳を握った。
玉には、普通の姫として生きてほしい。
笑って、嫁いで、子を産み、
穏やかに暮らしてほしい。
自分が背負うものを、背負わせたくない。
だが。
自分が背負うものが大きすぎる。
殿の命。
京の怨嗟。
噂の火。
武将の嘲り。
公家の嫌味。
寺社の怒り。
それらを抱えたまま、家に帰り、娘の頭を撫でる。
その手が、汚れている気がした。
光秀は目を閉じた。
己の心が削れている。
それは確かだ。
そして削れた心は、いつか刃になる。
その刃を、誰に向けるのか。
殿か。
世か。
それとも――自分自身か。
光秀は息を吐いた。
「……変わりはない」
もう一度、その言葉を見つめた。
そして、紙を折った。
同じ夜。
明智の屋敷。
玉は布団の中で、目を開けていた。
眠れない。
香の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
織田の香。
あの座敷の香。
笑い声。
扇子で隠された唇。
将軍という言葉。
そして濃姫の目。
私は布団の中で膝を抱えた。
父上が京で吸っている空気は、
今日私が見た空気より、もっと冷たい。
母上が震えていた理由が分かる。
父上は、きっともっと震えている。
震えているのに、顔には出さない。
それが父上だ。
私は息を吸って、吐いた。
耳と目は揃った。
でも、それだけでは足りない。
父上が京で削られるなら、
私がやるべきことは何だ。
将軍の噂を止める?
違う。
噂は勝手に生まれる。
噂を止めようとすれば、逆に目立つ。
火は消せない。
なら火が燃え広がらないようにするしかない。
――父上が矢面に立たないように。
私は考えた。
父上が京の火消し役をやらされるから、削れる。
なら、火消し役を増やす。
父上だけに負担が集中しないように。
織田家の中で、父上を守る者を作る。
守る者。
つまり味方だ。
私は布団から起き上がり、そっと畳の隙間から紙を取り出した。
未来を書き留めた紙束。
そこに、新しい紙を重ねる。
筆を取る。
墨を含ませる。
私は小さな字で書いた。
「父上を守る味方が必要」
次に書く。
「織田の奥方衆」
濃姫。
あの目は怖い。
でも、怖いからこそ力がある。
私は書いた。
「濃姫に覚えられる」
覚えられるのは危険だ。
だが覚えられなければ、私は何もできない。
私はさらに書く。
「織田の中に玉の居場所を作る」
居場所ができれば、父上が倒れそうな時、支えられる。
私は思い出した。
濃姫が言った。
「利口な子じゃ」
あれは試しだった。
なら、次は――試し返す。
私は紙に書いた。
「利口を見せすぎない」
賢さは刃だ。
刃を見せれば、折られる。
私は息を吐き、次に書いた。
「病を装う?」
病弱な姫。
それなら婚期が遅れる。
婚期が遅れれば、細川への縁談は揺れる。
だが病を装えば、父上が心配する。
父上がさらに削れる。
それは駄目だ。
私は筆を止めた。
違う。
もっと別の方法。
私は紙に書く。
「京へ行く」
自分が京へ行ければ、父上の負担を減らせる。
でも九歳の私に京は無理だ。
無理だが、未来を変えるには、無理を現実にするしかない。
私は考える。
母上の奥方衆の集まり。
あれは今後もある。
その場で私は、奥方たちに覚えられる。
覚えられれば、招かれる。
招かれれば、京へ行く理由ができる。
「織田の奥方に仕える姫」として。
私は小さく息を呑んだ。
それだ。
私は紙に書いた。
「濃姫の側に置かれる」
それが叶えば、私は京へ行ける。
京へ行けば、父上の空気を直接見る。
父上が削れていく理由を、直接掴める。
そして、父上が矢面に立たないように、
私は奥方衆から風向きを変える。
女の言葉は、男の政治を動かす。
刀ではない。
香でもない。
囁きで、歴史は変わる。
私は筆を置いた。
胸が少しだけ熱い。
怖い。
でも怖さは、進む理由になる。
私は紙を畳の隙間に戻し、布団に潜った。
そして目を閉じる。
父上が京で「変わりはない」と書いている頃、
私は屋敷で、別の言葉を書いている。
「変えなければならない」
歴史が燃える前に。
父上の心が刃になる前に。
私は、玉として。
まだ小さな玉として。
静かに、確実に、
未来を動かす準備を始めていた。
史実に見る「疲弊」の兆候
光秀が残した『明智光秀家憲』の中には、苦労を共にした家臣たちへの感謝と共に、どこか悲痛なまでの責任感が滲んでいます。また、比叡山焼き討ち後の過酷な戦後処理や、自身の病中にも関わらず執務をこなしていた記録もあり、心身ともに限界に近い状態が続いていたことが推測されます。
現代風に言えば: > 「外交官」と「前線司令官」と「都知事」を一人で兼任し、さらに「機嫌の激しいワンマン社長」に24時間体制で仕えていたような状態です。
ブラックな職場ですね(ᗒᗩᗕ)




