第十三話「香の中の刃」
織田の屋敷を出た帰り道、母はほとんど言葉を発さなかった。
馬の揺れ。
車輪の音。
遠くで鳴く鳥。
そのどれもが、妙に大きく聞こえた。
私は母の横顔を盗み見た。
表情は静かだ。
だが目だけが、ずっと前を見ている。
母は怖がっている。
恐れているのは、信長ではない。
信長の周囲だ。
奥方衆の集まりは、茶の席ではない。
あれは、戦の場だった。
刀も槍もない。
あるのは香と、言葉と、沈黙だけ。
それでも確かに、人を刺す。
私は膝の上で指を握った。
今日の私は、織田の空気を見た。
それだけで収穫だったはずなのに、胸の中に重い石が残っている。
濃姫の目。
あの目は、優しくなかった。
玉を可愛がる目ではない。
値を量る目だった。
「利口な子じゃ」
その言葉が、褒め言葉に聞こえなかった理由が分かった。
利口な子は、危うい。
利口な子は、家を動かす。
利口な子は、時に火種になる。
――だから、見られた。
私はその事実を噛みしめながら、屋敷へ戻った。
明智の屋敷へ入ると、空気が少し緩んだ。
香が薄い。
畳が古い。
侍女たちの足音が、織田ほど揃っていない。
その「乱れ」が、逆に私を安心させた。
千代が迎えに出てきた。
「奥方様、姫様、お戻りでございます」
母は頷き、私は小さく笑った。
「ただいま」
千代の目が、ほんの少しだけ安堵を見せた。
千代も怖がっていたのだ。
母が織田の屋敷に行くことを。
そこは敵地ではない。
だが、味方でもない。
私は母と共に部屋へ戻り、着物を脱がされた。
髪をほどかれ、肩の力が抜けた。
けれど心は抜けない。
私は母の部屋へ入った。
母は座り、茶を飲んでいた。
その指先が、少しだけ震えている。
私は母の前に座った。
「母上」
母は私を見た。
「玉、疲れたでしょう」
私は首を振った。
「疲れてない」
それは嘘ではなかった。
疲れているのは体ではなく、心だ。
母は茶碗を置き、少し息を吐いた。
「……織田様の屋敷は、息が詰まるわね」
その言葉が、母の本音だった。
私は頷いた。
「うん」
母は私を見て、少しだけ笑った。
「玉は、立派に挨拶できたわ」
私は目を伏せた。
褒められても嬉しくない。
今日の私は、試されただけだ。
私は母の袖を握った。
「母上」
母が首を傾げる。
「なに?」
私はできるだけ幼い声で言った。
「濃姫さま、怖かった」
母の目が一瞬揺れた。
私は続けた。
「笑ってるのに、目が笑ってなかった」
母はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……玉はよく見ているのね」
私はその言葉に、胸が少し痛んだ。
母は私を「利口」と認め始めている。
利口だと思われれば、扱いが変わる。
だが私は、母の信頼が必要だった。
母の信頼がなければ、私はこの屋敷の中で孤立する。
母は続けた。
「濃姫様は……殿の奥方ですもの」
殿。
信長。
母は「信長」とは言わない。
口にするだけで災いを呼ぶと思っているのだろう。
私は頷いた。
そして、さらに踏み込む。
踏み込みすぎないように、子どもの形で。
私は小さく言った。
「将軍さまの話、聞こえた」
母の顔が一瞬で固まった。
それだけで分かった。
母は知っている。
京の噂も。
将軍の影も。
母は声を落とした。
「……どこで」
私は首をすくめる。
「みんな、扇で口を隠してた。
でも聞こえた」
母は目を伏せた。
その沈黙が、答えだった。
母は恐れている。
その噂が、真実かどうかではない。
噂が出回ること自体を恐れている。
私は母の手を見た。
指先が、まだ震えている。
私は思った。
母は、父のために震えている。
父が京でこの空気を吸っているから。
母は言った。
「玉。あのような場で聞いたことは、口にしてはいけません」
私は頷いた。
「分かってる」
母は私の頭を撫でた。
「いい子ね」
いい子。
その言葉が、私には怖かった。
いい子でいるだけでは、未来は変わらない。
私は、いい子の仮面を被ったまま戦わなければならない。
母が席を立ち、襖の方へ目を向けた。
「志乃」
呼ばれて、志乃が入ってきた。
志乃は母に頭を下げる。
「はい、奥方様」
母は静かに言った。
「殿からの文、志乃も見たでしょう。
何か動きがあれば、すぐに知らせて」
志乃は頷いた。
「承知いたしました」
私はその会話を聞きながら、胸の奥で小さく火が灯った。
――父から文が来ている。
父は京にいる。
そして何かが動いている。
母が志乃に言ったということは、
その文はただの挨拶ではない。
私は母の顔を見た。
母は私に見せないようにしている。
だが、私には分かる。
母は追い詰められている。
そして、追い詰められた母は、やがて父に重い言葉を返す。
その重さが、父をさらに追い詰める。
私はその連鎖を断ちたい。
だから私は、ここで「子ども」の武器を使う。
私は母の袖を引いた。
「母上」
母が振り向く。
「どうしたの?」
私は少しだけ目を潤ませた。
涙は簡単に作れる。
恐怖は本物だから。
私は言った。
「父上、早く帰ってきてほしい」
母の目が揺れた。
そして母は、私を抱き寄せた。
「……そうね」
その声が震えた。
母は私の髪を撫でながら、小さく呟く。
「殿がいないと、家は落ち着かないわね」
その言葉が、私の胸に刺さった。
――母は父を支えている。
母が崩れれば、父も崩れる。
私は母の胸の中で、そっと息を吸った。
香の匂いがした。
織田の香ではない。
明智の香だ。
温かくて、弱い香。
守りたい香。
私は思った。
父が守りたいのは、きっとこの香だ。
だから父は戦う。
だから父は耐える。
耐えて、耐えて――限界が来た時、人は刃を抜く。
私はその刃を、抜かせたくない。
母の腕の中で、私は決めた。
次は「手」だ。
耳と目だけでは足りない。
私は動かせる手が欲しい。
父の周りの家臣。
織田の周りの奥方衆。
京の噂を運ぶ者。
私はその誰かを、自分の味方にする。
味方と言ってもいい。
私の「手」として。
母の胸の中で、私は小さく呟いた。
(香の中に、刃がある)
(刃を抜かせないために)
(私は、もっと深く入り込む)
母が私の頭を撫でた。
その手の温かさが、未来を変える力に思えた。
だが同時に、私は知っている。
温かさだけでは、歴史は止まらない。
私は目を閉じた。
そして心の中で、静かに次の一手を組み立て始めていた。




