第百七十六話 「岐阜の若殿」
岐阜城。
朝から城内は慌ただしく動いていた。
商人たちの出入り。
各地から届く文。
織田銭への両替。
堺との調整。
信長が安土へ移った今、 岐阜は信忠が預かる城としてその役割を大きく変えつつあった。
そして。
その中心にいるのが信忠だった。
政務の間。
信忠は次々と届けられる報告へ目を通していく。
「美濃南部、織田銭への切り替えほぼ完了にございます」
「尾張も順調です」
「堺商人から新たな海路の提案が」
家臣たちが次々と報告する。
以前ならば。
信長の判断を仰いでいた話も多い。
だが今は違う。
信忠自身が決めていく。
その姿に、 家臣たちの見る目も変わり始めていた。
「若殿ではなく……」
「もう殿だな」
そんな声も少しずつ出始めている。
だが信忠自身は浮かれていなかった。
むしろ。
織田を動かす難しさを日々痛感していた。
戦だけではない。
金。
兵站。
商人。
情報。
全てが繋がっている。
一つ乱れれば全体が揺らぐ。
だからこそ慎重だった。
その横で光秀が静かに補佐している。
「東国への補給ですが」
「一部、予定より遅れております」
信忠が顔を上げる。
「理由は」
「天候と」
光秀は少し間を置く。
「商人側の調整遅れとのこと」
信忠は小さく息を吐く。
まただ。
決定的ではない。
だが。
妙に噛み合わぬ。
最近そういうことが増えている。
光秀も同じことを感じていた。
だが二人とも、 まだそれを“敵”とは断定していない。
だからこそ下手に動かない。
「今は流れを見る」
信忠が静かに言う。
光秀も頷いた。
「はい」
一方。
奥では玉が穏やかな時間を過ごしていた。
熙子が着物を整えている。
「少し歩きますか?」
「はい」
玉は以前より柔らかな表情になっていた。
母がいる。
それだけで心が落ち着く。
本来なら。
不安で押し潰されてもおかしくない立場だった。
織田家嫡男の正室。
そして懐妊。
周囲の期待も重圧も大きい。
だが今の玉には支えてくれる者がいた。
信忠。
光秀。
熙子。
だからこそ。
少しずつ肩の力を抜けるようになっていた。
廊下を歩きながら、 玉は静かに庭を見る。
穏やかだ。
城の外では天下が動いている。
だが奥だけは、 どこか別の時間が流れているようだった。
「母上」
「なんですか?」
「この子が生まれる頃には……どうなっているのでしょうね」
熙子は少し考え、 優しく笑った。
「きっと賑やかになりますよ」
「殿も、信忠様も、光秀様も」
「皆、この子を待っております」
玉は自然と笑みを浮かべる。
そして腹へ手を添えた。
守りたい。
この穏やかな時間を。
そう強く思うのであった。
本能寺まであと三百四十七日




