第百七十四話 「静かな綻び」
岐阜城。
奥には穏やかな空気が流れていた。
玉は母・熙子と共に庭を眺めている。
懐妊してから、無理に政へ踏み込まぬよう意識していた。
もちろん気にはなる。
だが今は、 自分の役目を優先する。
それを決めていた。
熙子がゆっくり茶を注ぐ。
「最近は少し穏やかな顔になりました」
玉は小さく笑った。
「そうでしょうか」
「ええ」
「以前は、常に何かと戦っている顔をしておりました」
玉は苦笑する。
否定できなかった。
本能寺。
歴史。
未来。
その全てを変えようと走り続けてきた。
だが。
今は腹の中に守るべき命がある。
だからこそ、 一人で抱え込みすぎぬようにしていた。
その頃。
政務の間では、織田信忠 と 明智光秀 が各地からの報告を見ていた。
「……またか」
信忠が文を置く。
光秀も眉を寄せる。
内容は小さなものだった。
堺へ向かう予定だった荷が、 何故か別の商人に先回りされている。
東国への補給が、 偶然のように遅れる。
どれも決定的ではない。
だが。
妙に重なる。
信忠が低く呟く。
「偶然にしては続きすぎる」
光秀も頷いた。
「ですが、誰かが明確に敵対しているとも断定できませぬ」
そこが厄介だった。
証拠がない。
敵も見えない。
ただ。
流れが少しずつ噛み合わなくなっている。
光秀は静かに言う。
「大きな乱れではありませぬ」
「むしろ……」
「小さすぎるのです」
信忠はその意味を理解した。
大きな妨害なら分かる。
だがこれは違う。
ほんの少し。
流れをズラされている。
「まるで」
信忠が呟く。
「こちらを試しているようだな」
光秀は答えなかった。
だが同じことを考えていた。
そこへ玉からの文が届く。
内容は簡潔だった。
――奥では最近、商家の出入りが妙に増えております。
――ですが、害意は見えませぬ。
――ただ、話の流れが早すぎる気がいたします。
光秀は文を静かに閉じた。
玉も同じ違和感を感じている。
だが。
玉は深入りしていない。
違和感だけを拾い上げ、 こちらへ渡してくる。
それが今の玉だった。
信忠は立ち上がる。
「焦って探るな」
「はい」
「今は流れを見る」
敵がいるかも分からない。
ならば無理に動かない。
それもまた判断だった。
夜。
玉は部屋で静かに腹を撫でていた。
熙子は近くで針仕事をしている。
穏やかな時間。
だが。
玉の胸の奥には、 小さな引っ掛かりが残っていた。
歴史は変わっている。
大きく。
本来なら。
もっと織田は不安定だった。
光秀も追い詰められていた。
だが今は違う。
順調すぎるほど順調。
だからこそ逆に怖い。
玉は障子の向こうへ目を向ける。
静かな廊下。
誰もいない。
それでも。
何かが少しずつズレていく感覚だけが、 消えずに残っていた。
本能寺まであと三百五十一




