第百七十三話 「守るべきもの」
岐阜城。
奥には穏やかな時間が流れていた。
春の柔らかな風。
庭を揺らす木々。
その中で、玉は静かに母・熙子と過ごしていた。
「少し顔色が良くなりましたね」
熙子が優しく言う。
玉は小さく笑った。
「母上がそばにいてくださるからです」
それは本心だった。
母がいる。
ただそれだけで、張り詰めていた心が少し軽くなる。
何気ない話。
幼い頃の話。
父・明智光秀 の若い頃の失敗談。
そんな時間が、玉の心を穏やかにしていた。
もちろん。
政のことを考えなくなったわけではない。
東国。
織田銭。
長宗我部。
海路。
気になることは山ほどある。
だが玉は、今は無理に抱え込まぬよう意識していた。
縁側で腹へそっと手を置く。
まだ大きくはない。
だが確かにここに命がある。
守らねばならない命。
玉は静かに思う。
今は父と信忠様に任せよう。
政は二人が見ている。
ならば自分は、 自分にしかできぬ役目を果たすべき。
奥の耳は既に動き始めている。
侍女。
奥方。
商家。
各地から様々な話が入ってくる。
だが。
多すぎるのだ。
噂。
憶測。
嫉妬。
不満。
真実と虚偽が入り混じる。
取捨選択は非常に難しい。
玉はそれを理解していた。
だからこそ。
無理に自分だけで判断しない。
怪しい。
違和感がある。
そう感じたものだけを拾い上げ。
父と 織田信忠 に渡す。
そして最終的な判断は任せる。
それが今の自分にできる最善だと考えていた。
熙子が玉を見つめる。
「少し安心しました」
玉が首を傾げる。
「何がですか?」
「あなたは何でも背負い込む子ですから」
玉は苦笑する。
否定できなかった。
本能寺を防ぐ。
歴史を変える。
その思いだけで走り続けてきた。
だが今は違う。
玉は静かに腹を撫でる。
「今は……この子を無事に産むことに専念します」
「それが今の私の役目です」
熙子は優しく頷いた。
「ええ」
「それで良いのです」
外では、岐阜城が今日も慌ただしく動いている。
政。
軍。
海。
天下統一へ向け、織田は止まらない。
だがその一方で。
奥では、新たな命を守るための静かな時間も流れていた。
玉は穏やかな表情で、 愛おしそうに腹を撫でる。
この子はどんな未来を見るのだろう。
織田の天下か。
それとも。
まだ見ぬ別の未来か。
玉は静かに目を閉じた。
今はただ。
この小さな命を守りたい。
その想いだけが、 何より強く胸にあった。
本能寺まであと三百五十五日




