第百七十一話 「揺らぐ未来」
織田家に走った報せは、瞬く間に各地へ広がった。
織田信忠 の正室、玉の懐妊。
それは単なる吉報ではない。
織田家嫡流。
次代へ繋がる命が生まれる可能性。
つまり――
世継ぎ。
その意味を、誰もが理解していた。
安土。
岐阜。
堺。
各地の武将たちもその報せを聞き、反応は様々だった。
「めでたい」
そう笑う者もいれば。
静かに顔色を変える者もいた。
織田家の勢いは止まらない。
貨幣。
海。
交易。
四国。
東国。
全てが繋がり始めている。
その上で、嫡流に子が生まれる。
それはつまり。
織田政権が、 “次の代”へ入り始めるということだった。
薄暗い部屋。
障子越しの灯りが揺れる。
一人の男が静かに呟いた。
「……このままでは」
低い声。
感情を押し殺した声音。
「織田の天下統一は避けられそうにないな」
男は深く息を吐く。
「どうにかせねば……〇〇の未来は暗い」
その顔は見えない。
ただ。
確かに何者かが、 織田の加速を危険視していた。
一方。
岐阜城。
玉は母・熙子と共に過ごす時間が増えていた。
縁側。
穏やかな風が吹く。
玉は静かに茶を口にする。
熙子はそんな娘を優しく見ていた。
「無理はしておりませんか?」
玉は少し笑う。
「母上が来てくださってから、随分楽になりました」
それは本心だった。
熙子は、ただそばにいるだけではない。
気を張り続ける玉を、 自然に休ませようとしていた。
「あなたの父上も昔は大変だったのですよ」
「え?」
玉が少し驚く。
光秀の話を、母から聞くことは少なかった。
熙子は穏やかに笑う。
「若い頃は、文ばかり読んでおりました」
「戦より先に本を抱えて」
玉が思わず笑う。
「父上らしいです」
「でも不器用でしたよ」
「私へ話しかけるにも、何を話せばいいのか分からぬ顔をして」
「今の信忠様に少し似ております」
玉は頬を少し赤くした。
そんな何気ない話。
だが。
それが玉の心を和らげていた。
熙子は分かっていた。
今の玉には、 精神の安定が何より必要。
正室。
懐妊。
周囲の期待。
全てが十五の娘には重い。
だからこそ。
今は少しでも、 “普通の娘”でいられる時間を作ってやりたかった。
玉は静かに思う。
岐阜城へ来た頃。
こんな未来は想像していなかった。
本能寺を防ぐ。
そのための情報が欲しかった。
だから岐阜へ来た。
それだけだったはずなのに。
今は違う。
正室としての責務がある。
信忠を支え。
織田を支え。
そして今は、 この子を守らなければならない。
だが。
玉の胸には、 拭いきれない不安もあった。
歴史は変わっている。
確実に。
変わりすぎている。
本来なら。
父が追い詰められ。
本能寺へ向かう流れだった。
だが今の光秀は違う。
疲弊もない。
孤立もない。
信長から家族と言われ。
信忠の師となり。
織田の中核へいる。
では。
本能寺の火種はどこへ行ったのか。
玉はゆっくりと腹へ手を置く。
この子にも。
刃が向く可能性がある。
ならば。
考えうる全てを警戒しなければならない。
「玉?」
熙子の声で我に返る。
玉は小さく笑った。
「大丈夫です」
だがその瞳には。
未来を警戒する色が、 静かに残っていた。
外では。
岐阜城が今日も動き続ける。
天下統一へ向けて。
止まることなく。
本能寺まであと三百五十三日




