第百六十九話 「新たな命」
岐阜城。
夜。
政務の間には静かな空気が流れていた。
織田信忠。
明智光秀。
そして玉。
三人は長宗我部との交渉がまとまった報せに、ようやく一息ついていた。
信忠が地図を見ながら言う。
「四国での消耗を避けられたのは大きい」
光秀も深く頷く。
「はい」
「これで毛利への圧力も海から強められます」
机には瀬戸内海の海図。
港。
航路。
補給地点。
今の織田は、もはや陸だけで戦をしていない。
海そのものを支配し始めていた。
玉は静かに口を開く。
「長宗我部への支援も欠かせません」
「四国を安定してまとめてもらわねばなりませぬから」
光秀が頷く。
「交易を繋げることで、四国も織田側へ固定できる」
玉はさらに続けた。
「戦国の世は領地が複雑に分かれております」
「商人たちも陸路では常に危険と隣り合わせ」
「関所」 「他家の領地」 「密偵扱い」
「商い一つ命懸けです」
信忠は苦笑した。
「確かにな」
玉は海図へ指を置く。
「ですが海ならば違います」
「海上を押さえれば、そういった問題を大きく減らせる」
「水軍とのいざこざはありますが……」
そこで玉は少し笑った。
「今の織田の大船に、瀬戸内で真正面から挑める水軍はそうおりませぬ」
光秀も小さく笑う。
「まことに」
堺を押さえ。
船団を増やし。
大船を整備した織田。
既に海の力関係も変わり始めていた。
玉は二人を見た。
「今回のことで、兵の消耗を避けられました」
「これは大きいことです」
「戦で兵を減らせば、立て直しには年単位が必要」
「ですが今の織田は、西だけでなく東にも目を向け始めております」
信忠が頷く。
「滝川も動いた」
玉は静かに言った。
「だからこそ、今は足場を固めるべきです」
「織田銭の鋳造」
「海の支配」
「交易の固定」
「まずは織田そのものを盤石にする」
その声音は、もう十五の姫のものではなかった。
光秀はそんな娘を見て、心の内で驚きを覚える。
ここまで先を見ている。
しかも。
戦を減らす方向で。
玉は続ける。
「織田は兵を消耗品として扱ってはなりません」
「人が減れば国は痩せます」
「戦だけでは天下は維持できませぬ」
信忠は静かに笑った。
「お前らしいな」
玉も少し微笑む。
だがその後、表情を少し曇らせた。
「……これからは武将たちの不満も増えるでしょう」
「妬みも出ます」
「戦をしたい者」 「功を焦る者」
「必ず出てきます」
光秀が頷いた。
「避けられぬことですな」
玉は真っ直ぐ信忠を見る。
「ですが、信忠様が岐阜を独自に回していけば」
「皆の見る目も変わっていくはずです」
「今しばらく、お耐えください」
信忠はその言葉を聞き、静かに息を吐いた。
自分はまだ若い。
だが。
玉と光秀が支えてくれている。
その安心感があった。
その時だった。
玉の表情が急に歪む。
「……っ」
信忠が立ち上がる。
「玉?」
玉は口元を押さえた。
「申し訳……ありませ……」
ふらつく。
光秀もすぐ支える。
「玉!」
顔色が悪い。
信忠は即座に叫ぶ。
「御殿医を!」
しばらく後。
部屋には緊張した空気が流れていた。
信忠と光秀が待つ中、御殿医が深く頭を下げる。
「おめでとうございます」
「ご懐妊にございます」
その瞬間。
空気が止まった。
信忠が目を見開く。
「……本当か」
「はい」
「まだ初期にございますゆえ、安静が必要ですが」
光秀は一瞬言葉を失った。
やがて。
静かに目頭を押さえる。
娘に子ができた。
しかも。
信忠との子。
織田の嫡流へ繋がる命。
玉はそっと自分の腹へ手を置いた。
まだ実感は薄い。
だが。
確かにここに命がある。
その表情は、どこか穏やかだった。
だが同時に、玉はすぐ現実を見る。
「奥へ伝えてください」
「食の毒見を今まで以上に厳重に」
「警護も見直します」
信忠が驚く。
「今は休め」
だが玉は静かに首を振った。
「子を守るためです」
「油断はできません」
光秀はそんな娘を見て苦笑する。
「……母になり始めておりますな」
その夜。
信忠はすぐに安土へ書状を送った。
安土城。
織田信長 は文を受け取る。
読み終えた瞬間。
その目が大きく見開かれた。
帰蝶が様子を見る。
「どうなさいました」
信長は笑った。
しかも珍しく、心から。
「玉が懐妊した」
帰蝶の顔も柔らかくなる。
「まぁ……!」
信長は豪快に笑った。
「はっはっは!」
「早いではないか信忠!」
だが文には続きがあった。
――初産ゆえ、明智殿の奥方を呼び寄せ、玉の心を落ち着かせるのが良いかと思われます。
帰蝶はすぐ頷く。
「それがよろしいでしょう」
「初産は不安も多い」
「しかも玉はまだ若い」
信長は短く答えた。
「よい」
帰蝶はさらに言う。
「大事な跡継ぎやもしれませぬ」
「ここは城のしきたりより、玉の心の安寧を優先すべきかと」
信長も頷く。
「うむ」
「今は玉と子を守れ」
それは命令というより。
家族を案じる父の言葉だった。
夜。
安土の空には月が浮かぶ。
そして岐阜では。
玉が静かに腹へ手を添えていた。
戦。
政。
天下。
その全てが動く中。
新たな命もまた、 静かに生まれようとしていた。
本能寺まであと三百六十二日




